武家屋敷
上級・中級藩士が入れ替わり住んだ屋敷。享保8年(1733)の大火で焼失後再建。武家屋敷の特徴でもある長屋門、主屋や庭園など往時の暮らしを垣間見られる。
- 「松江しんじ湖温泉駅」から徒歩23分
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上級・中級藩士が入れ替わり住んだ屋敷。享保8年(1733)の大火で焼失後再建。武家屋敷の特徴でもある長屋門、主屋や庭園など往時の暮らしを垣間見られる。
安永8年(1779)、茶人としても名高い松江藩7代藩主・松平不昧[ふまい]こと松平治郷[はるさと]が、松江市殿町の家老有沢弌善[ありさわかずよし]邸に建てたもの。その後幾度かの変遷を経て、昭和41年(1966)、目の前に松江城を望む現在の位置に移築された。茅葺き、入母屋造の建物は簡素な美しさで、入母屋には不昧直筆の「明々庵」の扁額が架けられていて、島根県有形文化財の茶室である。別棟和室から庭園と茶室を眺め、抹茶を味わいながらひと息つける(料金:入館410円、呈茶410円)。
室町時代にたたら製鉄を始め、松江藩の9鉄師の筆頭を務めた田部家の土蔵群。文書蔵、道具蔵などその数は10を超し、なまこ壁のどっしりした造りが家格を無言のうちに示している。見学は外観のみ、内部非公開。
「三本松城」「蕗城」ともよばれる津和野城は、鎌倉時代に吉見頼行が30年かけて築城した山城。当時は土塁だけであったが慶長6年(1601)に入城した坂崎出羽守が石垣を築き、出丸として織部丸[おりべまる]を増築するなど強化に努め、亀井氏に受け継がれた。建物は明治7年(1874)に取り壊され、現在は東門、天守台、出丸などの石垣が往時の堅固な城の面影を伝え、史跡に指定されている。一帯は木々に覆われて散策によく、秋はモミジの紅葉が美しい。
津和野町内から西に約8kmの郊外にある旧家の庭園で、江戸時代に銅山年寄り役を務め、明治時代には銅山王として知られた15代堀藤十郎が作庭した池泉回遊式庭園である。滝や雪見灯籠などを配した庭園の中央には樹齢300年の楓の古木がそびえ、新緑や紅葉期は格別の風情。桜や梅など四季の花も美しい。
明治の文豪・森鴎外が文久2年(1862)に生まれ、10歳まで過ごした家。父は藩の御典医で、玄関から入って左の3畳間が父の調剤室。その奥の4畳半が鴎外の勉強部屋だったという。明治42年(1909)に発表された『ヰタ・セクスアリス』の中に「このへんは屋敷町で、春になっても柳も見えねば桜も見えない」と書いているのはこの家のことだ。前庭に鴎外の詩『扣鈕[ぼたん]』を佐藤春夫の筆で刻んだ碑が立つ。
亀井家8代矩賢[のりかた]が天明6年(1786)に創設し、西周や森鴎外など多くの人材を輩出した藩校跡。儒学・兵学・医学・数学と、幕末には蘭学も教えていた。当初は下中島堀内にあったが、津和野の大火で焼失、安政2年(1855)にこの地に移された。現在残っているのは武道場と槍術場・文庫のみ。建物内では養老館の歴史、出身者などをパネルで紹介している。島根県指定史跡。所要30分。
雪舟が晩年を過した雪舟終焉の地、旧東光寺の跡地に建てられた大喜庵。隣接した墓地に雪舟の墓がある。
養老館があるあたりは、かつて家老屋敷が集まっていたところで、津和野のシンボル的なスポット。なかでも多胡家は、津和野藩筆頭家老を亀井氏11代にわたって務めた家柄。風格ある武家屋敷門の左右には門番詰所や物見部屋が残っている。隣接して立つ大岡家も家老の家柄。中は一部、津和野町役場として使われている。
イエス・キリストの福音を伝えるために昭和6年(1931)、ドイツ人シェーファー神父が建てた教会。重厚なゴシック建築だが、礼拝堂内部は教会には珍しい畳敷きで、色鮮やかなステンドグラスが印象的だ。隣接する乙女峠展示室では、カトリックの殉教に関する歴史資料を展示している。また、明治初期浦上キリシタンの殉教地「乙女峠」にも美しい記念のマリア聖堂がある。
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