
下河原吹屋跡
江戸時代初期の銀製錬所の遺構。平成3年(1991)に発掘調査で発見され、日本に初めて伝えられた灰吹法で銀を取り出していたことがわかった。吹屋とは製錬所のことを言う。
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江戸時代初期の銀製錬所の遺構。平成3年(1991)に発掘調査で発見され、日本に初めて伝えられた灰吹法で銀を取り出していたことがわかった。吹屋とは製錬所のことを言う。
石見銀山の南西に位置する標高634mの矢滝城山に残る城館跡。築城年代は不詳だが、戦国時代に石見銀山の支配権をめぐっての争奪戦があり、享禄元年(1528)には大内義興が、3年後には小笠原氏が奪い取って銀山を支配した。矢滝城山北側には石見銀山から温泉津 [ゆのつ] 港に至る銀山街道が通り、街道を挟んで矢筈 [やはず] 城跡がある。山頂部は南北2つの曲輪[くるわ]群で構成され、北側には枡形の虎口[こぐち](入口)や竪堀、南側には堀切などが残って中世山城の形態を留めている。日本海や遠く三瓶山など眼下の眺望は抜群。国指定史跡で、世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産の一部。
文明11年(1479)頃に雪舟が作庭した萬福寺にある庭園(史跡・名勝)。池の向こうに須弥山を表す石組を配し、寺院様式という手法で造られている。右の枯滝と築山の暗部と、左の三尊石の明部の対比が庭に奥行きを与えている。
雪舟が晩年を過した雪舟終焉の地、旧東光寺の跡地に建てられた大喜庵。隣接した墓地に雪舟の墓がある。
イエス・キリストの福音を伝えるために昭和6年(1931)、ドイツ人シェーファー神父が建てた教会。重厚なゴシック建築だが、礼拝堂内部は教会には珍しい畳敷きで、色鮮やかなステンドグラスが印象的だ。隣接する乙女峠展示室では、カトリックの殉教に関する歴史資料を展示している。また、明治初期浦上キリシタンの殉教地「乙女峠」にも美しい記念のマリア聖堂がある。
養老館があるあたりは、かつて家老屋敷が集まっていたところで、津和野のシンボル的なスポット。なかでも多胡家は、津和野藩筆頭家老を亀井氏11代にわたって務めた家柄。風格ある武家屋敷門の左右には門番詰所や物見部屋が残っている。隣接して立つ大岡家も家老の家柄。中は一部、津和野町役場として使われている。
江戸時代の情趣を現代に伝える津和野のメインストリート。明治の文豪、森鴎外が少年時代に通った藩校養老館も現存している。6月は堀割に咲く花菖蒲と錦鯉のコントラストが美しい。
江津指折りの旧家小川家の庭園。室町時代中期、益田家の庇護を受けた雪舟[せっしゅう]が小川家を訪れ、作庭したと伝えられている。書院の裏山の斜面を利用した上下2段の池泉鑑賞式で、池の水は現在抜いてあるものの、石組みの意匠の大きさが際立つ。
西周は文政12年(1829)、津和野藩の医師の家に生まれ、わが国に西洋哲学を初めて紹介した哲学者。ペリー来航に触発されてオランダに留学し、法学と西洋哲学を学び帰国した。帰国後は15代将軍慶喜の政治顧問を務め、維新後は陸軍・文部・内務省の官僚を歴任。山県有朋のもとで明治憲法の草案作成に関わるなど、多方面で活躍した。森鴎外の森家とは親戚にあたり、家も近い。旧居は津和野川をはさんで鴎外旧宅と相対して立つ。安政元年(1854)再建の茅葺きの母屋と、周の勉強部屋があったという土蔵はともに国の史跡に指定。
津和野町内から西に約8kmの郊外にある旧家の庭園で、江戸時代に銅山年寄り役を務め、明治時代には銅山王として知られた15代堀藤十郎が作庭した池泉回遊式庭園である。滝や雪見灯籠などを配した庭園の中央には樹齢300年の楓の古木がそびえ、新緑や紅葉期は格別の風情。桜や梅など四季の花も美しい。
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