
大納言塚
豊臣秀長の墓所で、土壇の上に立派な五輪塔が立つ。塔には秀長の法名が刻まれている。山門前にお願い砂の入った箱があり、その中の砂を願い事を言いながら穴に通すようになっている。
- 「近鉄郡山駅」から徒歩10分/「郡山(奈良)駅」から徒歩25分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
豊臣秀長の墓所で、土壇の上に立派な五輪塔が立つ。塔には秀長の法名が刻まれている。山門前にお願い砂の入った箱があり、その中の砂を願い事を言いながら穴に通すようになっている。
本町筋の中央にあり、18世紀初期頃の町屋と資料にもとづき当初の姿に再現した館。
高取城は標高583.6mの高取山頂にあった山城。南北朝時代に築かれ、豊臣秀長の家臣本多氏、譜代大名の植村氏により大改修された。城内は1万平方m、周囲3km。郭内は6万平方m、周囲30kmに及び、山城としては日本一の規模といわれる。白亜の城郭建築がそびえた様子は芙蓉城と称えられたが、廃藩置県で取り壊された。広大な範囲に残る苔むした石垣が、かつての栄華を物語る。
飛鳥宮跡は飛鳥時代の宮殿跡と考えられており、発掘調査で明らかになった石敷き広場や石組みの井戸などが復原されている。この遺構は天武持統両天皇の飛鳥浄御原宮[きよみはらのみや]と考えられている。さらにその下層から別の宮殿跡が見つかっており、古くからの伝承により、中大兄[なかのおおえの]皇子と中臣鎌足[なかとみのかまたり]が蘇我入鹿を斬殺した乙巳の変の舞台となった飛鳥板蓋宮[いたぶきのみや]の可能性がある。
第9代開化天皇の陵とされる前方後円墳。全長約100m、後円部径48m、前方部幅48m。三条通りから北に参道が延びており、付近は繁華街の近くとは思えないような静けさに包まれている。
平城宮跡にあり、平城宮の正門。門をくぐって北へ行けば平城宮内の第一次大極殿、南へは平城京のメインストリートである朱雀大路が延びていた。高さ20m、間口25m、奥行き10mの壮大な二重門として蘇り、朱塗りの柱と白壁が美しい。大屋根には金色の鴟尾[しび]も輝く。外国使節など賓客の訪問時や儀式の際しか扉は開けられなかったというが、現在は日中常時開放。
大和郡山のシンボルとして親しまれる。天正8年(1580)に筒井順慶[つついじゅんけい]が築城。豊臣秀長時代の大増築に際し紀州根来寺[ねごろじ]の大門を移築、平城京羅城門の礎石や石仏、五輪塔までかき集めて豪壮な石垣が築かれた。今も天守台の北面で逆さまに積まれた地蔵が見られる。江戸時代には、水野、松平、本多と城主が替わり、享保9年(1724)以降は柳澤家十五万石の城下町として栄えた。明治時代に城郭は壊されたが石垣や堀が残り、追手門、東隅櫓[ひがしすみやぐら]、追手向櫓、多聞櫓[たもんやぐら]が復元されている。本丸に登城する正式な橋とされる「極楽橋」も完成。桜の季節にはお城まつりで賑わう。
「米忠[こめちゅう]」の屋号で、代々金物商と肥料商を営んでいた家。本瓦葺きで18世紀中ごろの建築とみられている。土間には煙り返しが付くなど農家風の印象。太い格子や蔀戸[しとみど]など建具もすばらしい。
高松塚古墳の南一帯は古代、檜隈[ひのくま]と呼ばれ、朝鮮半島などから渡ってきた渡来人が多数住んでいた地。大和棟の民家が美しい景観をつくる現在の檜前集落の南のはずれに、渡来系氏族東漢[やまとのあや]氏の氏寺だった、この寺跡がある。於美阿志[おみあし]神社境内に金堂や講堂の基壇や礎石が残り、塔跡には平安時代の十三重石塔(重要文化財)が立つ。
環濠集落は外敵を防ぐため、周囲に用水路を兼ねた水濠を巡らせた集落。奈良盆地に多いが、標高100mのここは奈良県で最も高所にある環濠集落。集落の西側に環濠の一部が残る。竹之内環濠集落から少し南に、萱生[かよう]環濠集落もある。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。