
内山永久寺跡
永久年間(1113~1118)、鳥羽天皇の勅願で創建されたと伝わる。坊舎50、堂宇20余りを数えた大寺院で、『太平記』によると延元元年・建武3年(1336)には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したという。しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となり、伽藍はことごとく消滅、寺域には池が残るだけ。堤の桜が美しく、池畔には芭蕉句碑「うち山やとざましらずの花ざかり」が立つ。
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永久年間(1113~1118)、鳥羽天皇の勅願で創建されたと伝わる。坊舎50、堂宇20余りを数えた大寺院で、『太平記』によると延元元年・建武3年(1336)には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したという。しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となり、伽藍はことごとく消滅、寺域には池が残るだけ。堤の桜が美しく、池畔には芭蕉句碑「うち山やとざましらずの花ざかり」が立つ。
継体天皇の皇后手白香皇女[たしらかのひめみこ]の墓とされ、宮内庁が管理する。古墳の名でいうと、西殿塚[にしとのづか]古墳。全長234mの巨大前方後円墳。付近に広がる大和古墳群には4世紀の大古墳が集中するが、そのなかでも最大の規模。周辺部の発掘調査結果からは、4世紀前半の築造とみられている。手白香皇女は6世紀の人物であることから、被葬者とするには大きな開きがあるといわれる。
土と石を積み上げた特異な塔。奈良時代に東大寺の実忠[じっちゅう]が造ったと伝わり、近年、高さ10m、7段のピラミッド状に復元された。見学は要連絡。
豪壮な石垣を巡らせた屋敷で、幕末に柳生藩財政を立て直した家老小山田主鈴[おやまだしゅれい]の旧邸。昭和39年(1964)には作家山岡荘八の所有となり、ここで柳生が舞台の小説『春の坂道』の構想を練ったという。館内には柳生藩ゆかりの古文書や武具などを展示する。
法隆寺境内の鏡池のほとりに、正岡子規の「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という有名な句碑が立つ。明治28年(1895)秋、東大寺近くに宿をとった子規は、夕食後、宿の人に御所柿を所望し、次々に食べた。一度に7つ、8つ食べるほどの柿好きだったといい、「奈良の宿 御所柿食へば 鹿が鳴く」の句も。奈良に滞在中、法隆寺を訪れたらしく、この時、子規28歳。35年の短い生涯に100ばかりの柿の句を残したが、死の前年に詠んだ句は「柿くふも 今年ばかりと 思ひけり」。柿の日の10月26日は子規が「柿くへば ~」の句を詠んだ日だとか。
玄関先に吊された杉玉からもわかるように、18世紀後半から現在まで続く造り酒屋。屋号は「上品寺屋[じょうぼんじや]」。江戸末期には今井にも数軒の造り酒屋があったが、今も残るのはここだけ。屋根の一方が切妻、一方が入母屋という珍しい造りで、2階に座敷を備える。2階見学は要予約。
元高取藩の家老屋敷で、現在は藩主・植村氏の子孫の住宅。道に面する長屋門は、間口39mという長大さ。白漆喰を盛り上げた、格子模様のなまこ壁が重厚感を漂わせる。外部見学のみ可能。
巨石を積み上げた姿があまりに有名な飛鳥のシンボル。奈良県中央部の明日香村に広がる国営飛鳥歴史公園石舞台地区に位置する国の特別史跡。6世紀末~7世紀初めの築造で、蘇我馬子[そがのうまこ]の墓というのが定説。墳丘は1辺約50mの方墳で、最大幅8.4mの濠が巡る。日本最大級の横穴式石室は、玄室の長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m。内部に入るとその巨大さが実感できる。「石舞台」の名は天井石が広く平らで舞台のようだから。石室の露出は馬子の専横ぶりに反発した後世の人が封土をはがしたとの言い伝えも。
金屋集落の西南にあり、山辺の道の南の起点。古代には飛鳥や難波に向かう道が合流する交通の要所で、わが国最古の市とされる海柘榴市が開かれ賑わった。ここはまた若い男女が歌を詠み合いながら婚約を成立させる、古代の「歌垣[うたがき]」の舞台でもあった。現在は小堂が立つ海柘榴市観音に名を残すだけ。
佐紀盾列古墳群の中にあり、垂仁[すいにん]天皇の皇后、日葉酢媛命の陵墓とされる。全長203mの前方後円墳で、巨大な蓋[きぬがさ]形埴輪などが出土した。『日本書紀』によると、垂仁天皇は皇后の死去にあたり、殉死の風習をやめさせるため、初めて埴輪を用いたという。
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