 
													植村家長屋門
元高取藩の家老屋敷で、現在は藩主・植村氏の子孫の住宅。道に面する長屋門は、間口39mという長大さ。白漆喰を盛り上げた、格子模様のなまこ壁が重厚感を漂わせる。外部見学のみ可能。
- 「壺阪山駅」から徒歩18分
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													元高取藩の家老屋敷で、現在は藩主・植村氏の子孫の住宅。道に面する長屋門は、間口39mという長大さ。白漆喰を盛り上げた、格子模様のなまこ壁が重厚感を漂わせる。外部見学のみ可能。
 
													崇神天皇陵よりさらに大きく、全長約300m。全国第7位の前方後円墳で、周囲に巡らされた濠は1kmにも及ぶ。第12代の景行天皇は日本武尊[やまとたけるのみこと]の父に当たり、宮都の纒向珠城宮[まきむくのたまきのみや]は、桜井市穴師[あなし]付近にあったと推定されている。
 
													大和と紀州を結ぶ交通の要衝として栄えてきた五條。旧街道は役割を国道に譲ったが、新町筋は旧紀州街道の雰囲気をよく残している。約1kmの細い道筋には江戸・明治期に建った白壁の町家が並び、慶長12年(1607)に建てられ、日本最古の民家といわれる栗山家住宅(重要文化財)もある。
 
													謀反の嫌疑を掛けられ抹殺された長屋王の変で知られる長屋王は、政界の実力者だが、佐保楼と呼ばれた邸宅(別邸?)は文化サロンでもあり、自身も懐風藻や万葉集に詩歌を残している。仏教に深く帰依し、中国に1000の袈裟を送ったとも伝える。その際に付けた漢詩「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」が鑑真に渡日を決意させる一因となったという。現イトーヨーカ堂奈良店あたりに広大な敷地があったことが出土木簡からわかっている。
 
													柳生街道の一部で、春日山と高円山の間を流れる能登川沿いに石切峠まで通じている石畳の坂道をいう。江戸時代に奈良奉行によって敷かれた2.5kmにわたる石畳の道の起点には、石の鳥居が立っている。旧柳生街道の一部にあたり、柳生の里と奈良の町をつなぐ唯一の道として、米、薪木、日用品を馬の背に積んだ人々が往来していた。また、柳生の道場を目指す武芸者が歩いた道でもある。
 
													天武天皇の皇子、高市[たけち]皇子の第一皇子である長屋王の墓と伝えられる場所。聖武天皇即位の際に左大臣に就いたものの、藤原氏の陰謀で、自殺に追い込まれた。削平された前方後円墳の後円部を利用した直径15mの塚が樹木におおわれている。
 
													高取城は標高583.6mの高取山頂にあった山城。南北朝時代に築かれ、豊臣秀長の家臣本多氏、譜代大名の植村氏により大改修された。城内は1万平方m、周囲3km。郭内は6万平方m、周囲30kmに及び、山城としては日本一の規模といわれる。白亜の城郭建築がそびえた様子は芙蓉城と称えられたが、廃藩置県で取り壊された。広大な範囲に残る苔むした石垣が、かつての栄華を物語る。
 
													永久年間(1113~1118)、鳥羽天皇の勅願で創建されたと伝わる。坊舎50、堂宇20余りを数えた大寺院で、『太平記』によると延元元年・建武3年(1336)には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したという。しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となり、伽藍はことごとく消滅、寺域には池が残るだけ。堤の桜が美しく、池畔には芭蕉句碑「うち山やとざましらずの花ざかり」が立つ。
 
													強大な権力を背景に律令政治を推し進めた天武天皇と、天皇として初めて火葬された皇后の持統天皇を合葬する。鎌倉時代に盗掘された時の記録が残っており、被葬者が確実な、数少ない古墳の一つ。
 
													猿目橋バス停から旧道の坂道を少し下った所に、道をふさぐように立つ。人の背丈ほどもある大きな石に6体の地蔵が横一列に浮彫りされた、地元の大切な守り神だ。
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