源義朝公之像
平治2年(1160)の正月三日、初湯に招かれた義朝公が、長田父子に謀殺されたといわれる湯殿跡地。源義朝公之像はそのすぐ横に静かに鎮座している。
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平治2年(1160)の正月三日、初湯に招かれた義朝公が、長田父子に謀殺されたといわれる湯殿跡地。源義朝公之像はそのすぐ横に静かに鎮座している。
長篠城は永正5年(1508)の築城と伝えられ、今川氏、武田氏、徳川氏による争奪戦が展開された。天正3年(1575)には長篠・設楽原の戦いの発端となり、甲斐の武田勝頼は長篠城を1万数千の兵で攻撃したが、奥平信昌率いる約500の城兵は激しく抵抗、また鳥居強右衛門[すねえもん]の活躍もあり、城はついに落城せず、織田・徳川連合軍を大勝に導いた。現在は国の史跡に指定され、土塁・内堀の跡が往時を物語る。また、周辺には医王寺(武田勝頼本陣地)や馬場美濃守墓、鳥居強右衛門の墓などの関係史跡が点在する。
香嵐渓北側、足助川沿いの地域が足助の町並み。江戸時代に伊那街道と呼ばれ、中馬(馬で荷を運ぶ人々の組合)によって三河湾の塩が信州に運ばれる「塩の道」(中馬街道)の宿場。塩問屋が数多くあった宿場町の面影が2kmほど残され、妻入り型や平入り型が混在する古い家々や馬頭観音や本町地蔵堂などご利益スポットも点在し、白壁と黒板塀の美しいマンリン小路、かつての銀行を利用した資料館の足助中馬館など、散策に格好。足助の町並みは国の重要伝統的建築物群保存地区に指定されている。
吉田城は永正2年(1505)に築かれ、戦国時代には東三河の重要拠点のひとつとして機能した。徳川四天王のひとり、酒井忠次が城主を25年務め、その後池田輝政が入城。近世城郭として石垣を整備。当時の面影を残す石垣と復興された鉄櫓があり、周辺は緑豊かな公園となっている。
石垣と復元された隅櫓[すみやぐら]が往時を偲ばせる、吉田城跡につくられた公園。緑豊かで、市民の憩いの場となっている。毎年「豊橋まつり」のメイン会場になり、「炎の祭典」なども開催。園内には豊橋市美術博物館のほか、陸上競技場や野球場がある。
伊良湖岬灯台の背後の山の斜面に、天武朝の皇族であった麻績王[おみのおおきみ]が『うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の玉藻刈り食す』と詠んだ歌碑がある。都を追われ伊良湖に身を寄せている時、里人の思いやりに応えて詠んだ歌。
長田父子による義朝謀殺の一報を聞き、家臣の渋谷金王丸や鷲栖玄光らは長田邸の湯殿へ急行する。これらを長田家の家臣団が迎え撃ち乱戦した場所がここ。
徳川家のルーツといわれる松平氏発祥の地。一帯は松平氏遺跡として国の史跡に指定されている。郷内には松平家の産湯の井戸や家康公を奉った松平東照宮、松平家にまつわる品々を展示する松平郷館、松平氏菩提寺の高月院などがあり、じっくりと史跡めぐりが楽しめる。また、「徳川家康公400年祭」を記念して、松平東照宮の天井が見事に生まれ変わった。季節の草花を題材にした色鮮やかな108枚の漆絵は、表面的な美しさだけでなく、大自然の本質的な「美」をうつし描かれている。
標高301mの真弓山頂上に立つ足助城は、戦国時代に鈴木氏が居城し、真弓山城とも呼ばれる。旧足助町が町制100周年の際、発掘調査をもとに再建したもので、本丸からは足助の町並みや飯田街道が一望できる。また、周辺は城跡公園として整備されている。
柳田國男[やなぎたくにお]が明治31年(1899)に伊良湖に滞在し、椰子の実を拾った話を親友の島崎藤村に語ったときにうまれた『名も知らぬ遠き島より流れよるやしの実ひとつ…』の抒情詩が刻まれた碑。
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