繭の家
幕末期に建てられた養蚕家の家屋を移築し、古き良き日本を再現。
- 「池下駅」から徒歩4分/「覚王山駅」から徒歩8分
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幕末期に建てられた養蚕家の家屋を移築し、古き良き日本を再現。
旧東海道の宮の宿(現在の熱田)は、桑名[くわな]へ渡る七里の渡しの渡船場として、船の出入りや客の往来も多かった。その航海の安全を見守る役目として置かれた常夜灯が、今でもひっそりと残っている。火災により寛政3年(1791)に再建され、その後荒廃していたものを昭和30年(1955)に地元の有志により、ほぼ旧位置に再建され、現在は宮の渡し公園として整備されている。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、信長の次男・信雄に助けを求められた家康と秀吉が熾烈な戦いを繰り広げた場所が、古戦場公園として整備されている。園内には秀吉方の武将、池田恒興[いけだつねおき]と元助[もとすけ]父子の戦死地とされる石碑などがある。園内には合戦に関する資料などを展示する長久手市郷土資料室もある。
桶狭間の戦いの前夜、義元公が諸将を集めて軍議を行ったという沓掛城。後に信長に攻め落とされる。現在、城はないが本丸や二の丸の一部、土塁や内堀、諏訪曲輪[すわくるわ]が残る。市指定史跡。
園内には西尾城の一部が復元され、歴史文化の中心スポットに。城の周りには庭園、西尾市資料館、食事処などがあり、散策にも最適。復元された本丸丑寅櫓は、高さ10mの木造建築で、壁面上部は漆喰塗籠、下の部分には下見板張りを取り入れている。園内の旧近衛邸では、「西尾の抹茶」のサービス(季節の和菓子がついて一服450円)が行われている。
博物館明治村に保存・展示されている建造物。明治10年(1877)代に、西郷隆盛の弟、西郷從道が東京上目黒に建てた自邸。半円形に張り出されたベランダなどの美しい造りが目立つ。赤坂離宮などで使用された調度品や家具類が展示されているほか、2階は学芸スタッフが案内する建物ガイドで公開。
伊良湖岬灯台の背後の山の斜面に、天武朝の皇族であった麻績王[おみのおおきみ]が『うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の玉藻刈り食す』と詠んだ歌碑がある。都を追われ伊良湖に身を寄せている時、里人の思いやりに応えて詠んだ歌。
揚輝荘は、大正から昭和初期にかけて(株)松坂屋初代社長の伊藤次郎左衞門祐民の別荘としてつくられた。昭和14年(1939)頃には、約1万坪の敷地に地形や周囲の自然を活かし、池泉回遊式庭園とともに30数棟の各種建造物があった。
鎌倉街道と伊勢街道が合流する交通の要であった清須。織田信長ゆかりの地で、信長没後に織田家の重臣が後継者を決める清須会議を開いた地でもある。清洲公園として整備された清須城跡の五条川を隔てた位置に、平成元年(1989)、旧清洲町の町制100周年を記念して、当時の外観や規模を模して建設されたのがこの清洲城。鉄骨と鉄筋コンクリート造り3層4階建ての天主閣を中心に芸能文化館、大手門、庭園などがあり、天主閣内の織田氏をはじめとする清須に関わる展示が興味深い。天主閣最上階からの眺めは絶景だ。
室町時代末期の平山城。織田信長の父信秀によって築城されたと伝えられている。その後丹羽氏が入城し、四代約六十年間その居城となった。豊臣秀吉と徳川家康の唯一の直接対決となった小牧・長久手の戦いにおいては、秀吉方の池田恒興の三河中入を阻止すべく戦い、当時の当主丹羽氏次の弟氏重以下約三百名が討ち死にした。城跡にある岩崎城址公園内には、櫓台・空堀跡などの他、日進市内を一望する模擬天守の展望塔岩崎城、岩崎城や日進市の歴史を紹介している岩崎城歴史記念館がある。
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