
国泰寺
臨済宗国泰寺派の大本山。嘉元2年(1304)に慈雲妙意[じうんみょうい]が創建した東松寺が始まり。足利尊氏が荘園を寄進し、伽藍の修復をしたと伝えられる。明治維新では廃仏毀釈の余波を受けたが、山岡鉄舟[やまおかてっしゅう]の尽力で天皇殿を再建。6月の開山忌には、全国から集まる虚無僧[こむそう]たちの尺八の大合奏が山々にこだまする。
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臨済宗国泰寺派の大本山。嘉元2年(1304)に慈雲妙意[じうんみょうい]が創建した東松寺が始まり。足利尊氏が荘園を寄進し、伽藍の修復をしたと伝えられる。明治維新では廃仏毀釈の余波を受けたが、山岡鉄舟[やまおかてっしゅう]の尽力で天皇殿を再建。6月の開山忌には、全国から集まる虚無僧[こむそう]たちの尺八の大合奏が山々にこだまする。
弘仁年間(810~824)、弘法大師が北陸巡錫の際に創建した真言宗の古刹。本堂内には一本の木から彫った一木造の仏像(県指定文化財)3躯を安置。なかでも高さ160cmの不動明王立像は兵火を免れて今日に伝わる価値あるもの。阿弥陀如来座像は、県内では珍しい来迎形の坐像である。
千数百年前の昔、大和朝廷から遣わされた武内宿弥が斎主となり創建した延喜式内の古社。主祭神は櫛稲田姫命、武素盞嗚尊。古くから多くの人びとの崇敬を集め、万葉の歌人大伴家持や戦国の武将もたびたび参詣した。家持はお宮の建つ鎮守の森を古能久礼山、奈良比丘と呼んだと伝えられる。長い参道が続く境内は、とやま森林浴の森、富山の自然100選に指定された。静かな森は、四季折々さまざまな植物で彩られる。境内に大伴二三彌ステンドグラス記念館併設。
真言寺院の古刹。大宝元年(701)の創建で、越中守佐伯有若が行基を招き、鷹供養のために七堂伽藍を建てたのが始まりとされる。本尊の木造阿弥陀如来坐像は、高さが5mあり、地元で小杉大仏さんとして親しまれている。寺宝の銅造地蔵菩薩立像や越中瀬戸焼の香炉も有名だ。
千光寺の境内にある観音堂で、建物は井波の宮大工によって造営された総欅造り。飛鳥時代の白鳳様式の銅造観世音菩薩立像を安置している。
富山市街の中心にある神社で、「富山山王さん」の別称で親しまれている。創建の年代は不詳だが、古くは建武2年(1335)の記録が残っている。大山咋神・大己貴神を主祭神とし、相殿に天照大御神・豊受大御神を祀る。初詣では県内一の人出で賑わい、縁結びのご利益があるとして若い人も数多く訪れる。
瑞泉寺の式台門(勅使門)。後小松天皇(在位1382~1412)の勅願所だったことから、門扉に菊の紋章がある。扉の両脇には、前川三四郎の弟子で井波彫刻の祖・番匠屋七左衛門の代表作、獅子の子落としが彫られている。
文明3年(1471)創建の浄土真宗の寺。蓮如[れんにょ]の書画、数珠などゆかりの品々を所蔵。また、棟方志功が戦時中この寺に疎開した際、華厳松[けごんまつ]などの襖絵を残している。浜田庄司、河井寛次郎の焼き物のほか、世界の民芸品も展示。
観音堂の外陣に狩野永徳・山楽が描いたとされる3枚の黒馬の絵馬が掲げられている。元和8年(1622)の寄進銘があり、これには加賀3代藩主前田利常が夫人の産後の健康を願って奉納したという説がある。
文明年間(1469~87)に創建されたと伝えられる浄土真宗の古刹。石山合戦の際には塩硝(火薬の原料)を本願寺に送る役割を果たしたといわれ、江戸時代には加賀藩からも手厚い保護を受けた。珍しい茅葺き屋根の山門(鐘楼門)は、飛騨の匠の作といわれている。また、蓮如[れんにょ]上人の書や顕如[けんにょ]上人の香炉などを収蔵している。
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