
藤森神社
平安遷都以前から祀られている古社。勝運のご利益があるといわれる。5月5日の藤森祭に行われる駈馬[かけうま]神事は、勇壮で多くの参拝者が訪れる。近年は馬の社として有名で、騎手をはじめ、競馬関係者や競馬ファンの参拝も多い。
- 「墨染駅」から徒歩8分/「JR藤森駅」から徒歩9分
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平安遷都以前から祀られている古社。勝運のご利益があるといわれる。5月5日の藤森祭に行われる駈馬[かけうま]神事は、勇壮で多くの参拝者が訪れる。近年は馬の社として有名で、騎手をはじめ、競馬関係者や競馬ファンの参拝も多い。
醍醐山全山を寺域とする京都屈指の大寺院で、真言宗醍醐派の総本山。山上の上醍醐と山下の下醍醐に分かれ、50余の堂塔が点在。貞観16年(874)に修験道中興の祖である聖宝理源大師が開き、第80代座主義演僧正の時代、豊臣秀吉の尽力により再興した。下醍醐の伽藍に立つ金堂や五重塔などの国宝をはじめ、数多くの文化財を有し、世界文化遺産「古都京都の文化財」にも登録されている。名高い「醍醐の花見」とは、豊臣秀吉が慶長3年(1598)に催した花見の宴のこと。この花見に因み、例年4月第2日曜には豊太閤花見行列が催される。
山科地蔵は仁寿2年(852)小野篁公が作った六地蔵尊像の中の御一方だ。後に、西行法師、平清盛によって伏見大善寺から都の出入口6カ所に分置された。都の東の門番、東海道を守護する本尊として、旧東海道に面して建つ六角堂に安置している。霊像は、平安時代の作風と伝わり、境内の趣からは当時の様子がよく偲ばれる。時代を超えて変遷する事のない、生活と信仰の姿を感じる事が出来る。徳林庵は、南禅寺第260世住職雲英正怡禅師によって、天文19年(1550)に創建された臨済宗南禅寺派の寺院。山科地蔵尊を御守りしている。
渡月橋を見下ろす高台に建ち、「嵯峨の虚空蔵さん」と親しまれてきた。『枕草子』の「寺は」では「壺坂、笠置、法輪」と並び称せられ、院政期には多くの人々の信仰を集めて隆盛を誇った寺。現在は十三まいりで親しまれ、毎年4月13日、13歳になった子供が法輪寺の虚空蔵菩薩に智恵と福徳を授かりに行く。思い思いの1字を墨で書いて奉納した後、渡月橋を渡って帰る時に、後ろを振り返るとせっかく授かった智恵を返してしまうとの言い伝えがある。
東福寺の境内に立つ。「じゅうまん不動」と呼ばれ、火除け信仰がある。五大堂に安置されている本尊の平安時代の不動明王像。
早咲きで知られる糸桜は、たおやかな枝ぶりのシダレザクラ。島の弁天さんと親しまれる寺。紅色の唐風山門、京都市内、南のはしにあたり、京都で一番早く桜が咲くので有名。3月24日頃~4月20日頃までいろんな桜が咲いている。
嘉祥3年(850)に文徳天皇によって創建されたが応仁の乱後荒廃した。しかし、寛文2年(1662)に再興。1本の釘も使っていない総欅造りの本堂に秘仏の歓喜天(聖天)と毘沙門天、弁財天という3体の福神を祭るため、地元の信仰を集めている。
薩摩藩主の島津義弘の希望により、出世大黒天を祀ったことが始まり。境内には寺田屋事件の九烈士の墓碑や、金運清水と呼ばれる井戸がある。
平安時代を代表する女流歌人、小野小町の住居跡といわれる寺院。遅咲きの梅の名所としても名高く、楚々とした花に彩られる境内は、美貌で知られた歌人ゆかりの場所にふさわしい。寝殿造の本堂には阿弥陀如来坐像(重要文化財)が安置されている。また小町に寄せられた恋文を下張りにしたという文張[ふみはり]地蔵、片膝を立てて座る卒塔婆[そとば]小町坐像も祀る。小野小町が化粧に使ったという「化粧井」や、小町に届いた1000通もの恋文を埋めたという文塚が残る。
菅原道真公が逝去後31年目に当たる承平4年(934)に、朱雀天皇の勅命により、誕生の地に創建された最初の天満宮。これより先、平安遷都とともに文章博士として恒武天皇に随行された道真公の祖父清公卿は遣唐使の命を受けて唐へ渡航中暴風に遭遇、船上にて吉祥天女の霊験を得て入唐。任務を終え帰国後、自邸内にお堂を建て吉祥天女の尊像をまつったことが吉祥院の由来で地名の起源となっている。境内には道真公のへその緒を埋めたと伝えられる胞衣[えな]塚をはじめ、少年時代習字に使用したという硯の水や顔を写したと伝える鑑[かがみ]の井などがある。
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