
白玉之塔
沖縄戦で米軍が最初に上陸したのは慶良間諸島。渡嘉敷島の北部、慶良間諸島の中で1番高い標高227mの赤間山中腹にある白玉之塔は、追い詰められた末に自決した島民や日本兵、約550柱を祭っている。
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沖縄戦で米軍が最初に上陸したのは慶良間諸島。渡嘉敷島の北部、慶良間諸島の中で1番高い標高227mの赤間山中腹にある白玉之塔は、追い詰められた末に自決した島民や日本兵、約550柱を祭っている。
石垣島南部の眼下に宮良湾を望む丘陵にある国指定史跡となっている遺跡である。約12haの敷地内には、中世の防御性を持った屋敷囲いの石垣をはじめ、近世の古墓や御嶽跡などが点在する。現在は発掘調査と石積みの復元など、整備が進められており、13世紀前半から16世紀初頭の土器や陶磁器などが出土している。
波照間の人々は太平洋戦争末期、西表島の南風見田の浜へ強制疎開させられた。そして多くの人々がマラリアで命を落とした。慰霊碑はこの時に命を落とした子供達の霊をなぐさめ、この悲劇を繰り返すまいと建てられたものだ。
陶器と喫茶「南窯」裏手にあり、今までに数多くの名品を生み出してきた荒焼[あらやち]用の登り窯。地形の傾斜を利用して造られたかまぼこ型の窯で、壺屋地区に窯場が集められた頃に琉球王府から賜った拝領窯といわれている。現在は閉窯しているが見学可能。昭和48年(1973)沖縄県文化財指定。窯を覆うようにかけられた赤瓦屋根のなだらかな曲線が印象的。
標高127mの高台にある城跡で、15世紀初めに名築城家として知られる護佐丸[ごさまる]によって築城された。2つの郭[くるわ]からなる連郭式。沖縄に現存するものでは最古といわれるアーチ門の優美な姿や、高さ13m・延長360m余りの城壁の堂々たる構えは見応え充分。沖縄戦の際には旧日本軍の高射砲陣地となり、戦後には米軍のレーダー基地が置かれていたが、現在では戦争の面影は見られず静けさを取り戻している。城壁の上からは、東シナ海の島々や那覇から本部半島までの沖縄本島西海岸を一望することができる。
中城湾を望む標高160mの高台にある世界文化遺産の名城跡。沖縄県内に300余りが残されているグスクの中でも特に美しい遺構が残っており、国の史跡に指定されている。先中城按司が築いた城を15世紀中頃、築城家でもある座喜味城主の護佐丸[ごさまる]が国王の命令により移り住み、三の郭と北の郭を増築・完成させたといわれている。6つの城郭からなる連郭式の城は、琉球石灰岩の切石を基本に自然の岩石、地形的条件を生かした石垣が城壁を囲む。築城年代が違うため、切石積みの技法も野面積みと布積み、亀甲乱れ積みの3つの技法が見られる。
享保5年(1720)に掘られたといわれる井戸で、国の史跡に指定されている。市街地の北東に位置するこの井戸は、島民のものではなく、琉球王府から派遣されてきた役人のための井戸だった。大小の切石を円形に積み上げた見事な石造りの井戸は、当時の宮古島の石工技術の高度さを示している。
沖縄最古の歌謡集にも謡われた歴史ある城跡。自然石を積んだ古城と切石のアーチ門を備えた新城の2つの郭からなる。
その存在を全国にとどろかせる与那国島の海底遺跡。かつての文明の遺構とも、自然の造形物ともいわれるが、真偽の程は未だ明らかになっていない。ならば実際に潜って自身の目で確かめてみては。スキューバダイビングで潜るのは大変でも、半潜水艇なら、普段着のままで大丈夫だ。与那国島の海は透明度が高いため、ガラス越しに見る海底遺跡はあたかも自分が潜っているかのよう。海底遺跡行半潜水艇は要予約。
旧海軍司令部壕は昭和19年(1944)に日本兵3000人によって掘られた旧海軍の司令基地で、現在は空港からもっとも近い戦跡地として整備公開されている。鍬やツルハシなどを使い手作業にて5か月間で掘った地下壕が当時のまま残されており、地下20mまで下りたその先には、司令官室、幕僚室など300mに渡り歩いて見ることができる。また資料館では壕内で発掘された遺品や兵士が家族に宛てた手紙が閲覧できるほか、年表や写真で沖縄戦について学ぶことができる。毎週金曜日は前日までの予約で実施可能な無料ガイドツアーもあり。
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