知念城跡
沖縄最古の歌謡集にも謡われた歴史ある城跡。自然石を積んだ古城と切石のアーチ門を備えた新城の2つの郭からなる。
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沖縄最古の歌謡集にも謡われた歴史ある城跡。自然石を積んだ古城と切石のアーチ門を備えた新城の2つの郭からなる。
有名な沖縄芝居、「伊江島ハンドゥー小[ぐゎ]」。その舞台となった島村屋の屋敷跡に建てられた施設だ。この物語は美女ハンドゥー小の悲恋を描いた物語で、沖縄三大悲劇物語の一つとして数えられている。園内にポツンとたたずむハンドゥー小の銅像がなんとも印象的だ。島村屋の民家を復元した民俗資料館では、農具や漁具、生活民具等が展示され、かつての島民の生活を伺い知ることができる。
享保5年(1720)に掘られたといわれる井戸で、国の史跡に指定されている。市街地の北東に位置するこの井戸は、島民のものではなく、琉球王府から派遣されてきた役人のための井戸だった。大小の切石を円形に積み上げた見事な石造りの井戸は、当時の宮古島の石工技術の高度さを示している。
市街地の北方、荷川取海岸の道路沿いに立つ石柱。屋敷神、陽石、男根崇拝など様々な説があるが、有力なのが人頭税石である。人頭税とは、薩摩藩の侵略で財政が窮乏した琉球王朝が寛永14年(1637)~明治36年(1903)まで宮古島と八重山地方に課した税のことで、高さ143cmのこの石柱の高さに身長が達すると男性は粟、女性は上布の納税が義務付けられたと言われている。実際は役人の見立てで身長の判断はされていたそうだが、当時の取り立ての厳しさを後世に伝える意味で大切に保存されている。
16世紀初頭、尚真王の王府軍の攻撃を受け、火攻めに遭って落城したと伝えられる城跡。久米島で最も高い宇江城岳(310m)山頂に城壁が残る。ここからの眺めは360度の絶景。唯一全島を見渡すことができる場所としても有名だ。晴れた日には粟国島や渡名喜島も見ることができ、この眺めを味わうために訪れる人も多い。
沖縄本島北端に位置し、隆起サンゴの断崖がそそり立つ景勝地。岬の先端に立つと、左手に伊是名島や伊平屋島、北の海上には与論島も見渡せる。与論島を含む奄美諸島は昭和28年(1953)に本土に復帰したが、沖縄の本土復帰が実現するのは昭和47年(1972)。先端付近には米軍統治時代に、与論島とこの岬でかがり火を焚き、本土復帰を訴えた海上集会を記念して立てられた祖国復帰闘争の碑がある。岬の背後にそびえる岩山は、辺戸岳。辺戸御嶽ともいわれ、琉球の祖先アマミキヨが沖縄の島々を創ったときに最初にこしらえたという伝説が残る霊地。
高良家は船頭主屋[しんどうしゅーやー]と呼ばれる旧家。琉球王朝末期に建てられた寄棟造で、サンゴを相方積み技法で軒高まで積み上げた石垣や、ヒンプンなどに風格が残る。屋根は大正時代に茅葺きから赤瓦にふきかえられた。主屋には畳敷きの一・二番座と、板敷きの三番座と裏座の6部屋があり、炊事場も主屋内にある沖縄離島の古民家では珍しい造り。
15世紀初頭に築城されたと伝えられ、国指定史跡にも指定されている城(沖縄ではグスクと呼ばれる)。城壁は、安山岩と石灰岩を巧みに用いているのが特徴。平成11年(1999)から城壁の修復が行われ、往時の姿を取り戻しつつある。海に面した丘陵の上にある城跡からは、東シナ海を一望。中国陶磁器が出土するなど、盛んに海外との交易を行っていたことがわかる。
15世紀末頃、宮古島の首長として、強大な権力を有した仲宗根豊見親が父親を葬るために建てた墓。宮古在来の「みゃーか」といわれる巨石墓様式の墓と、沖縄本島の横穴式墓の様式を組み合わせた珍しい造りになっている。美しい石積みからは当時の石工技術の高さをうかがえると同時に、沖縄本島との文化交流を垣間見ることができる。墓は仲宗根豊見親の子孫、忠導氏一門によって現在も使用されている。国の重要文化財及び沖縄県指定史跡。
沖縄戦で米軍が最初に上陸したのは慶良間諸島。渡嘉敷島の北部、慶良間諸島の中で1番高い標高227mの赤間山中腹にある白玉之塔は、追い詰められた末に自決した島民や日本兵、約550柱を祭っている。
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