旧崇元寺石門
琉球石灰岩でできた三連アーチ型の門。70m近くにわたる重厚な石門は、切石布積みで造られたもの。国重要文化財にも指定されている。門の内部は境内で、かつては琉球王国の歴代の尚[しょう]氏王統の霊を祭る崇元寺があったが、沖縄戦によって全壊した。
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琉球石灰岩でできた三連アーチ型の門。70m近くにわたる重厚な石門は、切石布積みで造られたもの。国重要文化財にも指定されている。門の内部は境内で、かつては琉球王国の歴代の尚[しょう]氏王統の霊を祭る崇元寺があったが、沖縄戦によって全壊した。
約280年前に建てられた豪農屋敷で、沖縄戦の戦災を免れて琉球王朝時代の民家構造を完全に残している。享保10年(1720)頃には地頭職であったため、士族屋敷の形式としての風格もある。ほかにもトゥングワとよばれる屋根裏部分を物置きに使用するために屋根が低くなっている台所や、フールとよばれる豚小屋などに特徴がある。中世の日本の家屋と中国の建築の影響が随所に見られ、琉球時代の裕福な農家の暮らしを今に伝えている。
玉城朝薫は、音楽・舞踊・台詞を総合的に取り入れた琉球国劇『組踊』の創始者。墓は亀甲墓が作られはじめた17世紀後半から18世紀前半のものといわれている。石積みや縁石に曲線を多用しているのが特徴。2019年5月には『琉球王国時代から連綿と続く沖縄の伝統的な「琉球料理」と「泡盛」、そして「芸能」』と、ストーリーを構成する文化財29件が日本遺産に認定された。
本部半島の北側、緑濃い山々に囲まれた連郭式の山城跡。約7.9haの広さは首里城に匹敵する規模を誇り、かつては難攻不落・沖縄屈指の名城とうたわれた。沖縄に南山、中山、北山の3つの勢力が対立していた三山時代(14~15世紀)、北部一帯を支配していた北山王が三代にわたって居城とし、幾重にも複雑に連なった城壁が当時の面影を今に残す。城跡の入口手前には、今帰仁村歴史文化センター(時間:8~18時、5~8月は~19時、無休)があり、今帰仁城や村周辺で暮らしてきた人々の歴史や文化を紹介している。
沖縄戦当時、最前線からアメリカ本土にニュースを伝え、伊江島で殉職した米従軍記者、アーニーパイルの慰霊碑。
昭和20年(1945)の沖縄戦で激戦地であった伊江島にある。戦いで亡くなった軍人約2000名・住民約1500名、合計3500名余りを合祀している。伊江島での戦闘が終結した4月21日には毎年平和祈願祭が行われ、犠牲になられた方の安らかな眠りを祈っている。
奥武島の中央に位置する奥武観音堂は、約370年前、島の人々が漂着した唐船を救助し、お礼として贈られた観音像を祀ったもの。戦争で像も建物も焼失したため、戦後新たにつくられた。
標高127mの高台にある城跡で、15世紀初めに名築城家として知られる護佐丸[ごさまる]によって築城された。2つの郭[くるわ]からなる連郭式。沖縄に現存するものでは最古といわれるアーチ門の優美な姿や、高さ13m・延長360m余りの城壁の堂々たる構えは見応え充分。沖縄戦の際には旧日本軍の高射砲陣地となり、戦後には米軍のレーダー基地が置かれていたが、現在では戦争の面影は見られず静けさを取り戻している。城壁の上からは、東シナ海の島々や那覇から本部半島までの沖縄本島西海岸を一望することができる。
玉御殿は、琉球王家第二尚氏初代尚円の父(尚稷)らの墓所とされ、伊是名島の南東に突き出す小山の北麓に位置している。首里に築いた「王陵」と、ほぼ同時期に伊是名島の玉御殿も築いたと伝わる。国指定重要文化財。
旧海軍司令部壕は昭和19年(1944)に日本兵3000人によって掘られた旧海軍の司令基地で、現在は空港からもっとも近い戦跡地として整備公開されている。鍬やツルハシなどを使い手作業にて5か月間で掘った地下壕が当時のまま残されており、地下20mまで下りたその先には、司令官室、幕僚室など300mに渡り歩いて見ることができる。また資料館では壕内で発掘された遺品や兵士が家族に宛てた手紙が閲覧できるほか、年表や写真で沖縄戦について学ぶことができる。毎週金曜日は前日までの予約で実施可能な無料ガイドツアーもあり。
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