海底遺跡
その存在を全国にとどろかせる与那国島の海底遺跡。かつての文明の遺構とも、自然の造形物ともいわれるが、真偽の程は未だ明らかになっていない。ならば実際に潜って自身の目で確かめてみては。スキューバダイビングで潜るのは大変でも、半潜水艇なら、普段着のままで大丈夫だ。与那国島の海は透明度が高いため、ガラス越しに見る海底遺跡はあたかも自分が潜っているかのよう。海底遺跡行半潜水艇は要予約。
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その存在を全国にとどろかせる与那国島の海底遺跡。かつての文明の遺構とも、自然の造形物ともいわれるが、真偽の程は未だ明らかになっていない。ならば実際に潜って自身の目で確かめてみては。スキューバダイビングで潜るのは大変でも、半潜水艇なら、普段着のままで大丈夫だ。与那国島の海は透明度が高いため、ガラス越しに見る海底遺跡はあたかも自分が潜っているかのよう。海底遺跡行半潜水艇は要予約。
遠浅の海に伸びる、長さ354mの桟橋は、満潮時には海の上を歩いているような気分になれる。目の前には石垣島や西表島を望むことができる。人も少なく静かなので、サイクリングの途中に立ち寄ってのんびりと過ごそう。平成17年(2005)に登録有形文化財に指定されている。
多良間神社の入口から100mほど東にある、土原豊見親春源[うんたばるとぅゆみやしゅんげん]の墓。アーチ門のある石垣で囲まれた石積みの墓で、その形は沖縄で野辺送りのときに死者を運ぶ龕と呼ばれる葬具に似ている。西側の墓碑には7代目の子孫「春遊」が土原豊見親の偉業を称え、周辺を整備したと記されている。造営は18世紀初頭。この島に流刑にされた心海上人の手によってなされたものと考えられている。
波照間の人々は太平洋戦争末期、西表島の南風見田の浜へ強制疎開させられた。そして多くの人々がマラリアで命を落とした。慰霊碑はこの時に命を落とした子供達の霊をなぐさめ、この悲劇を繰り返すまいと建てられたものだ。
石垣島南部の眼下に宮良湾を望む丘陵にある国指定史跡となっている遺跡である。約12haの敷地内には、中世の防御性を持った屋敷囲いの石垣をはじめ、近世の古墓や御嶽跡などが点在する。現在は発掘調査と石積みの復元など、整備が進められており、13世紀前半から16世紀初頭の土器や陶磁器などが出土している。
高那崎の近くに最南端を標す小さくて素朴な碑がある。日本復帰前の昭和45年(1970)に当時、日本列島縦断の旅をしていた学生が、島でアルバイトをして資金をつくり、島の人たちと共に完成させた。海側に出ると、左手に見えるのが高さ数10mの断崖絶壁が続く高那崎のみごとな景観も眺められる。
一周道路を少し外れた森の中にある。本土復帰を記念して島民により整備された一帯は下田原城とよばれる城跡で、石組みの城壁が残っている。また近くには下田原貝塚や大泊貝塚もあり、島の古代史を今に伝える重要な場所となっている。
文政2年(1819)、宮良間切の頭職だった宮良親雲上當演[ぺーちんとうえん]が、琉球の伝統的な建築様式にのっとり造らせた館。世界大戦で沖縄本島の士族家屋はことごとく焼失したが、石垣島は戦火を免れた。そのため、当時の士族の邸宅を知る資料として、国の重要文化財に指定されている。母屋の右奥にある庭園は首里の名造園師、城間親雲上[ぐすくまぺーちん]が設計監督したもので、国の名勝に指定されている。
西港の手前に、昭和25年(1950)まで操業していた燐鉱石採掘事業の跡地がある。レンガの建物は鉱石を乾燥させた場所、左側の建物は貯蔵庫だった。ここで精製、乾燥された燐鉱石は、トロッコで西港へ運ばれ、北大東島外へ搬出されていた。燐鉱石採掘事業は戦前に最盛期を迎え、島の人口は2000人を超えていたという。国史跡に指定されている。
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