俳誌「ほととぎす」創刊の地
俳句雑誌『ほととぎす』は、明治30年(1897)、子規の友人の柳原極堂によって創刊された。子規のすすめた俳句革新をバックアップし、20号まで発行。のちに高浜虚子が跡を継いだ。
- 「石手川公園駅」から徒歩9分/「大街道駅」から徒歩12分
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俳句雑誌『ほととぎす』は、明治30年(1897)、子規の友人の柳原極堂によって創刊された。子規のすすめた俳句革新をバックアップし、20号まで発行。のちに高浜虚子が跡を継いだ。
3階大屋根の上にある塔屋。中に太鼓が吊るされており、1日3回打ち鳴らされる(6時、12時、18時)。この音は環境庁(現・環境省)の「残したい日本の音風景100選」に選ばれている。見学は館外からのみ可(内部の見学は不可)。
別子銅山の近代化を推し進めた住友家初代総理事・広瀬宰平氏の足跡をたどる展示館と、広瀬氏の実際の住まいだった旧広瀬邸がある。明治時代に建てられた旧広瀬邸は、至るところに西洋文化が取り入れられている貴重なもので、国指定重要文化財に、庭園は国指定名勝となっている。
山口県生まれの自由律の俳人、種田山頭火の終の住処。山頭火の句にちなんだ樹木が植えられた庭には、4基の句碑が立つ。1年を通して庵の外観見学は自由。庵に隣接した休憩所には、山頭火に関する資料を展示。
標高132mの勝山に造られた松山城は、山上の本丸に小天守や櫓が連結する連立式天守をもつ平山城。慶長7年(1602)に築城を開始し、約四半世紀をかけて完成したとされる。本丸跡(本丸広場)と二之丸跡(二之丸史跡庭園)、三之丸跡(堀之内地区)から成る城山公園は全体が国指定史跡で、天守をはじめ、乾櫓や野原櫓、隠門など築城当時から残る櫓や門など21棟が国指定重要文化財。安政元年(1854)に再建落成された天守では、歴代城主の甲冑や刀を展示。松山城の歴史が学べ、甲冑の試着体験も好評だ。最上階からは石鎚山から伊予灘までが一望できる。
松山城二之丸御殿跡を整備した庭園。間取りを流水で再現した奥御殿跡流水園など、情緒ある手法で当時の姿を表現している。結婚式の前撮りスポットとしても知られ、恋人の聖地に認定されており、隠れた恋のパワースポットとして注目を集めている。
「表忠碑」と彫られているのは近代騎兵制度創設の功労者、陸軍大将秋山好古揮毫の石碑で、三津の厳島神社にある。石碑の裏側には日露戦争にて三津地区から出兵した人の名前が刻まれている。
江戸~昭和の約280年間、銅を産出した別子銅山。「マイントピア別子」はその鉱山跡を利用したテーマパークで、最後の採鉱本部があった端出場ゾーンと、最盛期の拠点・東平ゾーンから成る。“東洋のマチュピチュ”と呼ばれる東平は、大正5年(1916)~昭和5年(1930)に採鉱本部が置かれ、銅山施設に住宅や小学校、娯楽場などもあり賑わった。東平貯鉱庫跡や東平索道停車場跡などの建物遺構は圧巻で、東平歴史資料館や銅細工体験のできるマイン工房もある。見学には端出場ゾーン発の東平行き定期観光バスツアーがおすすめだ。
小説では、中ノ川は、川幅2mあり、水が飲めるほどに美しく、子規の正岡屋敷は南側の生垣をこの流れに映していたと記されている。現在、中ノ川通りの中央の緑地帯には、子規が2~17歳で上京するまで過ごした住居跡碑があり、そばには子規の歌碑も立つ。
中ノ川の緑地帯には子規の母・八重と妹・律が明治21~25年(1888~1892)まで暮らした家の跡碑もある。ここは4畳と6畳の二間しかない小さな家で、帰省中の子規を訪ねて大学生の漱石が訪ねた折には、八重が松山鮨[ずし]でもてなした。
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