上黒岩岩陰遺跡
久万川の南岸にある、約1万2000年前の縄文早期の岩陰遺跡で、土器や石器、人骨などが発掘された。出土品は、遺跡そばにある上黒岩岩陰遺跡考古館に展示されている。225点の収蔵品の中には、線刻女神像や細隆起線文土器などがある。
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久万川の南岸にある、約1万2000年前の縄文早期の岩陰遺跡で、土器や石器、人骨などが発掘された。出土品は、遺跡そばにある上黒岩岩陰遺跡考古館に展示されている。225点の収蔵品の中には、線刻女神像や細隆起線文土器などがある。
別子銅山の近代化を推し進めた住友家初代総理事・広瀬宰平氏の足跡をたどる展示館と、広瀬氏の実際の住まいだった旧広瀬邸がある。明治時代に建てられた旧広瀬邸は、至るところに西洋文化が取り入れられている貴重なもので、国指定重要文化財に、庭園は国指定名勝となっている。
道後温泉本館と並び愛媛県を代表する木造建築。正面に太鼓櫓[たいこやぐら]を据えた入母屋造の木造瓦葺2階建てで、大正5年(1916)に建てられた。老朽化のため取壊しの声もあったが、昭和60年(1985)に建築当時の芝居小屋の姿に戻った。
瀬戸内しまなみ海道で繋がる伯方島と大島の間、宮窪港沖合に浮かぶ周囲約850mの無人島「能島」。能島村上氏の本拠で、隣接する鯛崎島とあわせて、小島全体が城郭として利用された海城。天正16年(1588)、能島村上氏は豊臣秀吉の海賊禁止令により九州へ移り、廃城となった。現在は国指定史跡。島へ渡る定期船はないが、島周囲の干満の差による激しい潮流を見学する潮流体験を、物産館・レストラン「能島水軍」で催行している。船上からの能島の見学や、(株)瀬戸内しまなみリーディングが催行している上陸&潮流クルーズでは能島への上陸体験ができる(詳細は要問合せ)。
江戸後期から大正にかけて建てられた町家や豪商の屋敷が軒を連ね、木蝋生産で栄えた町の面影を残す。黄土と漆喰で塗り込められた重厚な大壁や平入り造りが特徴。隣家との間に残る小道や水路は、土壁や石積などと相まって独特の路地空間を生んでいる。懸魚[げぎょ]や虫籠窓[むしこまど]など、家々の意匠も興味深い。重要文化財の大村家住宅、本芳我家住宅、上芳我家住宅を含む600mの通り一帯が重要伝統的建造物群保存地区。
江戸~昭和の約280年間、銅を産出した別子銅山。「マイントピア別子」はその鉱山跡を利用したテーマパークで、最後の採鉱本部があった端出場ゾーンと、最盛期の拠点・東平ゾーンから成る。“東洋のマチュピチュ”と呼ばれる東平は、大正5年(1916)~昭和5年(1930)に採鉱本部が置かれ、銅山施設に住宅や小学校、娯楽場などもあり賑わった。東平貯鉱庫跡や東平索道停車場跡などの建物遺構は圧巻で、東平歴史資料館や銅細工体験のできるマイン工房もある。見学には端出場ゾーン発の東平行き定期観光バスツアーがおすすめだ。
町の東端にある肱川の景勝地・臥龍淵に立つ貿易商・河内寅次郎の別荘で、大洲一番のみどころ。明治時代に10余年の歳月をかけて建てられた数寄屋造の名建築。肱川、冨士山を借景にした庭園に立つ母屋の臥龍院、茶室の知止庵、不老庵の3棟がみものだ。臥龍院、不老庵、文庫は国指定重要文化財。4~5月の日曜、祝日には、臥龍山荘下から出発する屋形船での遊覧、臥龍の渡し(料金:片道300円、問合先:大洲市観光協会)も運航される。
鎌倉時代末期に宇都宮氏により築城されたといわれ、その後藤堂・脇坂・加藤氏ら各大名たちの造営を経て近世城郭が整備された。平成16年(2004)には、史料を基に天守を当時の姿で正確に復元。当時としては戦後復元された木造天守としての4層4階建ては日本初であった。残る4つの櫓は国の重要文化財に指定。
肱川沿いに広がる水郷・大洲は、藩政時代からの町割りが残っている風光明媚な城下町。肱川随一の景勝地に立つ臥龍山荘をはじめ、白壁土蔵が立ち並ぶおはなはん通りや明治の家並みなど、城下町ならではのしっとりとした町並みが残る。
明治15年(1882)に建築された、アーチ型の窓をもつ擬洋風のモダンな校舎。2階には当時の教室が再現され、明治初期の教材「掛図」などを展示している。予約をすれば、明治の模擬授業が体験できる。
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