
道後公園・湯築城跡
中世まで伊予の国を支配した河野氏の居城跡。現在は国史跡庭園として整備されている。出土品や遺構を保存する資料館・復元武家屋敷にはボランティアガイドも常駐している。
- 「道後公園駅」から徒歩3分/「道後温泉駅」から徒歩5分
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中世まで伊予の国を支配した河野氏の居城跡。現在は国史跡庭園として整備されている。出土品や遺構を保存する資料館・復元武家屋敷にはボランティアガイドも常駐している。
小林一茶とも交友のあった、江戸時代の俳人・栗田樗堂が寛政12年(1800)に市中の隠を楽しむために結んだ庵。昭和24年(1949)に愛媛県の史跡に指定、平成12年(2000)から3年間かけて改修・復元された。庭園内の樹齢200年を超すというノダ藤の見頃は4月下旬。
小説では、中ノ川は、川幅2mあり、水が飲めるほどに美しく、子規の正岡屋敷は南側の生垣をこの流れに映していたと記されている。現在、中ノ川通りの中央の緑地帯には、子規が2~17歳で上京するまで過ごした住居跡碑があり、そばには子規の歌碑も立つ。
松山城二之丸御殿跡を整備した庭園。間取りを流水で再現した奥御殿跡流水園など、情緒ある手法で当時の姿を表現している。結婚式の前撮りスポットとしても知られ、恋人の聖地に認定されており、隠れた恋のパワースポットとして注目を集めている。
三津は松山藩の御船手組[おふなてぐみ](船奉行所)が置かれた由緒ある港町。遠浅のため、三津港では大型汽船は沖合いに停泊し、はしけ船が乗船をわたしていたという。子規や秋山兄弟、漱石もここから出港した。きせんのりばの碑は三津3丁目から現在の地へ移転している。子規の句碑「十一人一人になりて秋の暮」は、明治28年(1895)子規が故郷での療養のあと再び東京へ旅立つ際、宴を催してくれた友人たちと別れた後の寂しさを詠んだもの。
山口県生まれの自由律の俳人、種田山頭火の終の住処。山頭火の句にちなんだ樹木が植えられた庭には、4基の句碑が立つ。1年を通して庵の外観見学は自由。庵に隣接した休憩所には、山頭火に関する資料を展示。
3階大屋根の上にある塔屋。中に太鼓が吊るされており、1日3回打ち鳴らされる(6時、12時、18時)。この音は環境庁(現・環境省)の「残したい日本の音風景100選」に選ばれている。見学は館外からのみ可(内部の見学は不可)。
江戸時代初期に、築城の名手藤堂高虎が瀬戸内海に臨む砂地の上に築いた平城。現在でも、中心部の郭と、砂上にも関わらず高さ10m以上を誇る高石垣、幅約50mの広大な内堀がほぼ完全に残り、まるで水上の要塞のよう。昭和55年(1980)以降に再建が進んだ五重天守や櫓の内部は、今治藩ゆかりの歴史資料や地元の自然・芸術に関わる資料や作品を展示する総合博物館になっており、天守最上階の展望台からは瀬戸内しまなみ海道の絶景が広がる。海水が引かれ、海の魚が回遊する珍しい堀や、夜間の幻想的なライトアップもみどころの一つ。
吹揚公園は今治市中心部に位置し、慶長7~9年(1602~04)に藤堂高虎公によって築城された今治城の城跡。古くから今治市民の憩いの場となっている。平成19年(2007)には鉄御門[くろがねごもん]が再建された。毎年3月下旬には公園内の桜が一斉に花開き、多くの人が花見に訪れる。
前方後円墳がほぼ完璧な状態で残っている、国指定史跡妙見山古墳を中心に整備された公園。レトロなレンガ造りのアーチをぬけると、貴重な出土品などを展示した藤山歴史資料館をはじめ、広い芝生広場、木造のアスレチック遊具が揃う冒険斜面園地などがある。家族に人気のスポット。
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