
倶利伽羅峠
源氏と平家が激しく戦った倶利伽羅峠は石川と富山を結ぶ重要な街道筋。国指定の歴史国道で、いにしえの旅人に思いを馳せてみては。
- 「石動駅」から徒歩25分
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源氏と平家が激しく戦った倶利伽羅峠は石川と富山を結ぶ重要な街道筋。国指定の歴史国道で、いにしえの旅人に思いを馳せてみては。
加賀藩の役宅(奥山廻役)として、江戸時代中期の豪農民家の姿をほぼそのままに残す建物。5190平方mもの敷地は周囲に堀と塀がめぐらされ、表門・主屋・土蔵の3棟が国の重要文化財となっている。庭園に面して立つ主屋の広間は豪壮な梁組、それとは対照的に座敷は繊細な造りとなっており、藩政時代の面影が偲ばれる。所要20分。
黒部ダム駅と黒部ダムを結ぶダム連絡通路の出入口脇にある。昭和31年(1956)から昭和38年(1963)の黒部ダム建設中、大町トンネル(現・関電トンネル)の大破砕帯などの困難を極めた工事で犠牲になった171名の霊を弔う慰霊碑。「六体の人物像」は彫槊家の松田尚之氏が手がけたもので、殉職者の名前が刻まれたプレートが掲げられている。
菅野家は明治初頭に5代伝右衛門が北海道との通商などで財を築き、高岡政財界の中心的存在として活躍した。明治33年(1900)の大火直後に再建された大規模な町家で、土蔵造りの重厚な外観と繊細な内部が大きな魅力である。
前田家の家紋である梅鉢形に造られた公園。見どころが多く、緑豊かで、金屋町散策の拠点にもなる。
立山信仰登山の基地となった、古い宿泊・礼拝施設(国指定重要文化財)で、信者はここから雄山山頂の神社を目指した。日本最古の山小屋ともいわれ、最初の建物ができたのは、少なくとも15世紀末より以前と考えられている。建物は2棟に分かれ、北室は享保11年(1726)、南室は明和8年(1771)に再建されたものを、1992~94年の解体調査後に復元した。屋根は切妻造で、柱はタテヤマスギの太い角材を等間隔に並べた堅牢な構造。内部には解体調査で出土した陶器などの貴重な遺物を展示。
砺波チューリップ公園にある200年以上前の砺波の農家住宅。建坪53坪(175.2平方m)、大居[おい](広間)を中心に南側に座敷、北側に土間、後ろに茶の間、寝室がある。公園への移築にあたり、家の周囲に杉や竹のカイニョ(屋敷林)を巡らして散居村の屋敷景観も復元している。
相倉伝統産業館。相倉民俗館から小道を少し下った旧中谷家住宅を利用。屋内では、かつての主要産業であった塩硝[えんしょう]や養蚕の道具類などや、相倉地区で盛んに製造されていた和紙の生産工程や道具、和紙工芸品の数々が見学できる。和紙の染紙や和紙の造花など、多岐にわたる工芸品に目をみはる。
内山家は大永・享禄(1521~1531)のころ、宮尾の地を新田開発してからこの地で450年続いた家柄で、越中一千石地主といわれた豪農。富山藩の時代には歴代十村役(大庄屋)を勤め、地域の農業振興、文化の向上に努めたといわれる。現在の邸宅は、慶応4年(1868)に建てられたもので、瓦葦き切妻造りの木造一部二階建て。名石や庭木を配置した広大な庭園とともに、藩政時代の伝統的な豪農屋敷の構えを残している。邸内には茶室が3カ所、内山家から寄贈された美術品、文学資料などを展示し、往事の農家の繁栄した生活ぶりがうかがえる。国の登録有形文化財に指定されている。
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