
五料の茶屋本陣お西お東
参勤交代で中山道を通る大名が昼食などで利用した休憩所。代々名主を勤めた中島家の屋敷で、お西、お東の2軒の建物が並び、大黒柱や囲炉裏の間などが往時の面影を残す。妙義山を借景にした庭園も風情を見せて美しい。
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参勤交代で中山道を通る大名が昼食などで利用した休憩所。代々名主を勤めた中島家の屋敷で、お西、お東の2軒の建物が並び、大黒柱や囲炉裏の間などが往時の面影を残す。妙義山を借景にした庭園も風情を見せて美しい。
明治5年(1872)、輸出品の主力だった生糸の生産量・品質を向上させるため、明治政府が設立した模範器械製糸工場。創業当初に建てられた主要建造物は、ほぼ完全な状態で残っている。平成26年(2014)6月に世界遺産に登録され、同年12月に東・西置繭所、繰糸所が国宝に指定された。解説案内あり、ガイドツアーは1人1回200円(中学生以下は100円)。
室町時代に建てられたという天幕城の堀跡に、約4000平方mにわたって広がる大規模なハス園。ハスは花を咲かせる午前中が見ごろ。
安中藩出身の明治時代の教育家で、同志社大学を創設した新島襄ゆかりの家。明治7年(1874)に米国から帰国した際、この地で両親と再会を果たした。展示室には写真や資料が展示されている。
交通の難所である松井田と軽井沢の間の碓氷峠を行き来した旧信越本線の橋梁。アプト式と呼ばれる運転方式が採用され、約70年運用された。通称「めがね橋」と呼ばれる碓氷第三橋梁は、明治26年(1893)に造られたレンガ造りのアーチ橋で、高さ31m、長さ91mの大きなもの。現在はかつての鉄道路線が遊歩道「アプトの道」として整備されており、この橋も歩いて渡ることができる。国指定重要文化財「碓氷峠鉄道施設」の1つ。
明治11年(1878)に建てられた擬洋風建築で、和風の小屋組と洋風の外観装飾が特徴的。明治時代には群馬県衛生所・医学校として使用され、昭和51年(1976)国の重要文化財に指定。1階の展示室には、大正時代のピアノや黒漆塗りの家具などアンティークな品々が展示されている。2階中央は貴賓室となっており、黒漆塗りに金蒔絵を施した豪華な家具を見ることができる。1階には喫茶室もある。所要20分。
木骨石積レンガタイル張りの旧大間々銀行の建物を利用した総合博物館。1mmにも満たない微化石コノドントや高津戸城、銅山街道など、この地方の自然や歴史民俗を総合的に展示している。恐竜コーナー、立体映像のほかバラエティに富む企画展も好評。現存する銀行建築としては県下で3番目に古いという、大正ロマン香るレトロな建物も見どころだ。
近代養蚕技術の基本となった養蚕法「清温育」を創始した高山社発祥の地。母屋兼蚕室のほか、蚕室跡の石垣、江戸期の長屋門などが残る。
明治20年(1887)に建てられた木造2階建て、茅葺き両妻兜造の中・上層の民家。雲越家9代目仙太郎が昭和55年(1980)82歳で亡くなるまでここで自給自足の生活をしていた。その間の資料約5300点をそのまま展示。地域の生活を丸ごと伝える民俗資料として、大変貴重なものとなっている。所要30分。
室町時代の小幡氏にはじまり、織田氏、松平氏の支配下に栄えてきた小幡藩の城下町。織田信長の次男・信雄[のぶかつ]が小幡織田藩の藩祖で元名元年(1615)から明和4年(1767)にかけて8代152年にわたって統治した。現在も幅14mの中小路に武家屋敷の白壁が続く。なかには下級武士が上級武士から身を隠すためのものともいわれる、道が2回直角に折れた喰い違い郭[くるわ]などが残る。
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