将軍塚青龍殿
2カ所ある展望台からは京都市街を一望できる。桓武天皇が平安京造営時に都の安泰を念じて将軍の像を埋めた大きな将軍塚があり、庭園は桜や桃が咲き乱れ、秋は紅葉が真紅に染まる。
- 「蹴上駅」から徒歩13分/「東山(京都)駅」から徒歩19分
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2カ所ある展望台からは京都市街を一望できる。桓武天皇が平安京造営時に都の安泰を念じて将軍の像を埋めた大きな将軍塚があり、庭園は桜や桃が咲き乱れ、秋は紅葉が真紅に染まる。
堀川通沿いを流れる堀川に架かる小さな橋。平安時代に文章博士三善清行[みよしきよつら]が死去したという知らせを受けた子の浄蔵が、この橋で葬列にあい、柩にすがって神仏に祈ったところ、父が蘇生したので、戻橋と呼ばれるようになったという。秀吉の命で切腹した利休の首が晒された地でもある。
上賀茂神社の南、賀茂社から流れ出る明神川に沿って、石垣を積み、白い土塀で囲った家が30軒余り続く。これらは同神社の神官らが住んだ屋敷(社家)で、風格のある家並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。そのなかで数寄屋造の西村家別邸(錦部家旧宅)(料金:500円)が公開されており、社家の内部をうかがうことができる。
秦氏の墓と考えられている京都市屈指の古墳。7世紀初頭の前方後円墳で、巨石を積んだ横穴式石室が露出している。玄室の長さは約7m。
京・大坂の境にある要衝地に、徳川幕府が築いた城。享保8年(1723)からは幕末まで稲葉氏十万二千石の居城であった。明治維新で破却されたが、本丸跡の石垣と内濠の一部が残り、往時を偲ばせている。また、秀吉の愛妾淀君の館が、淀城北東500mの納所妙教寺あたりにあったと伝えられている。
大堰川[おおいがわ]に架かる全長155mの橋。亀山上皇が「くまなき月の渡るに似る」として、渡月橋と命名したという風情ある橋で、嵐山の景観にとけ込んでいる。鵜飼などの川遊びも渡月橋を中心に行われる。当初、橋は現在より100mほど上流にあったと考えられるが、慶長11年(1606)に角倉了以[すみのくらりょうい]が大堰川上流の保津川開削工事を行った際、今の場所に移された。
もとは八条宮家の別荘として江戸初期に造営された。完成に多くの年月を費やし、竹やぶに囲まれた6万9000平方mの敷地には、苑池を設け、松琴亭、賞花亭などの茶亭や書院を配している。庭園と建築の総合美は、世界的に知られる。参観は許可制。所要時間約1時間。
明治天皇の御陵で、東西127m、南北155mにもわたる。上円下方の形で、それぞれ3段に築成。表面は小石に覆われ、周囲には2重の玉垣がある。陵内は広く、参道には玉砂利が敷かれ、木々が茂る大きな森になっていて、荘厳な雰囲気。明治天皇陵の東には、同形の昭憲皇太后伏見桃山東陵が並んでいる。
『平家物語』で知られる小督を祀る小さな五輪塔。高倉帝に愛された小督は、中宮・徳子の父平清盛ににらまれ、嵯峨野のほとりに身を隠す。渡月橋の近くで奏でる「想夫恋[そうふれん]」の琴の調べで居場所が知れ、帝のもとに呼び戻されるが、結局は清盛によって出家させられ、追い出されてしまったという。
天智天皇が奈良・飛鳥に日本初の水時計台を造ったことにちなみ、参道入口には石の日時計が立つ。参道を進むと拝所へ至る。天智天皇は大化の改新を断行、近江大津宮で天智7年(668)に即位。3年後に死去し、大化の改新のパートナー・中臣氏の邸宅があった山科に葬られたとされる。
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