
隠岐神社
昭和14年(1939)、後鳥羽上皇没後700年に合わせて、上皇が過ごした場所に建てられた神社。祭神は後鳥羽上皇。本殿は切妻造、銅板葺き、隠岐造の堂々たる建築で、静かな境内は桜の名所としても知られている。
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昭和14年(1939)、後鳥羽上皇没後700年に合わせて、上皇が過ごした場所に建てられた神社。祭神は後鳥羽上皇。本殿は切妻造、銅板葺き、隠岐造の堂々たる建築で、静かな境内は桜の名所としても知られている。
西ノ島中南部、島前3島を外輪山とし、島前の最高峰である標高452mの焼火山の中腹に立つ神社。平安時代中期の創建と伝わる。社殿(重要文化財)は岩窟に半分めり込むような特異な造りで、現存する隠岐最古の神社建築といわれている。後鳥羽[ごとば]上皇が隠岐へ流される途中、遭難しかかった際に、神火を放って救ったという言い伝えから、海上安全の神として信仰されている。
二代目銀山奉行竹村丹後守が大檀那となり開いた寺。境内には奉行や代官の墓があり、元禄時代に再建されたという東照宮には、家康から12代までの歴代将軍の位牌が祭られている。勝源寺本堂には極彩色格天井、隠れキリシタン地蔵やマリア観音も見どころである。
室町前期に創建された神社で、境内には樹齢540年を超える御神木のケヤキがそびえている。7月の祇園祭の神事として奉納される「鷺舞」の舞台でもある。鷺舞は国指定の無形民俗文化財となっていて、2羽の鷺に扮して舞う姿は古式ゆかしく、かつ優雅だ。毎年6月30日には「輪くぐり神事」が行われ、夏を迎える風物詩として賑わう。
龍源寺間歩を通り抜け下った先の栃畑谷に鎮座する神社で、鉱山の守り神である金山彦命を祀る。銀山を支配した代々の権力者の崇敬を受け、境内には豪壮な社殿や苔むした石段が残されている。
神々の国・出雲にある、古代より縁結びの神として崇められてきた古社。正式には「いづもおおやしろ」と呼び、主祭神は大国主大神。松の参道の奥には、八雲山を背に、檜皮葺きの屋根に千木をのせた御本殿をはじめ、大きなしめ縄が印象的な拝殿や神楽殿、出雲大社の資料を展示する宝物殿など、数多くの社殿が立ち並び、荘厳な雰囲気を漂わせている。延享元年(1744)に造営された国宝の御本殿は、日本最古の神社建築様式である大社造で、高さは約24mもある。年間を通して行われる祭典や神事、奉納行事も多いので事前にチェックを。
高野山真言宗の寺院。見どころは本堂の向かい側にある左右の岩窟内に250体づつ安置した五百羅漢像。中央には釈迦三尊を祀る。亡くなった坑夫を弔って、明和3年(1766)まで25年ほどかけて作ったとされる。当時から、五百羅漢にお参りすれば500体の顔の中に亡くなった親や我が子を見つけることができると言われ、今でもお参りが絶えない。本堂内では創建当時から、本尊さんの下をくぐる「胎内くぐり」も体験でき、その先の本堂裏には縁切り羅漢がある。縁切りと、縁結びの両縁参りの寺院である。
宍道湖を一望する標高約200mの一畑山の上に立つこの寺は、眼病平癒の仏様として全国的に名高い。起源は寛平6年(894)、地元の漁師が海中から引き上げた薬師如来像を祀ったことに始まる。広大な境内には、本堂、法堂、観音堂などが点在し、1300段の石段も有名。また、宍道湖を借景に取り入れた雄大な庭園を拝観できる。
応永27年(1420)に津和野城主吉見頼弘[よしみよりひろ]が創建した、歴代津和野城主の菩提寺。江戸時代は曹洞宗の西日本本山として栄えた。どっしりとした茅葺き屋根の本堂や経蔵、書院などの建物は、享保14年(1729)に再建されたもの。山門にかかる「覚皇山」の額は、明の帰化僧で水戸光圀[みとみつくに]に迎えられた心越[しんえつ]禅師の書だ。山門左手に森鴎外、本堂裏には大坂夏の陣で徳川家康の孫娘千姫を救出した坂崎出羽守の墓がある。
万葉の歌人で、益田沖の鴨島で没したと伝わる柿本人麻呂[かきのもとのひとまろ]を祭る古社。ツツジや桜に囲まれた石段を登りつめると拝殿があり、その奥に弊殿と変形春日造の本殿が立つ。拝殿脇に人麻呂像がある。
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