国分寺
天平13年(741)、聖武[しょうむ]天皇の勅願で行基が開いたという寺。四国霊場第80番札所だ。一帯は国の特別史跡に指定され、仁王門から本堂(重要文化財)へ向かう途中に七重塔や金堂の礎石が残る。寺の背後に整備された讃岐国分寺跡の遺構や復元家屋も見ておきたい。
- 「国分(香川)駅」から徒歩7分
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天平13年(741)、聖武[しょうむ]天皇の勅願で行基が開いたという寺。四国霊場第80番札所だ。一帯は国の特別史跡に指定され、仁王門から本堂(重要文化財)へ向かう途中に七重塔や金堂の礎石が残る。寺の背後に整備された讃岐国分寺跡の遺構や復元家屋も見ておきたい。
海沿いに広がる憩いの公園は、瀬戸大橋を望める絶好のロケーション。瀬戸内海に沈む美しい夕日や瀬戸大橋のライトアップが楽しめるなどデートスポットとして大人気。園内には家族連れに好評の「遊具広場&芝生広場」や、かつて宇多津町の基幹産業であった塩づくり体験ができる「入浜式塩田」がある。また、四国最大級の水族館「四国水族館」の完成によりさらに魅力ある公園になることが期待される。
万延元年(1860)に初めて太平洋横断を成し遂げた咸臨丸。この乗組員のうち35名が塩飽諸島出身、うち11名が広島の出身だったそう。その乗組員の墓が広島内のあちこちにある。
明治36年(1903)竣工。元は陸軍第十一師団将校のための社交場。木造平屋建て、外観は簡明なルネサンス様式をとる。平成13年(2001)に国の重要文化財に指定された。平成16年(2004)から平成19年(2007)まで保存修理がなされ、現在は一般公開されている。善通寺市民の社交の場として貸館をしており、結婚式やレセプションに利用可能。隣接する付属棟にはカフェを併設。
旧阿波街道に近い金倉川[かなくらがわ]に架かり、長さ約24m、高さ4.2m。刀の鞘のような反りがあることからその名が付いた。銅葺唐破風造の屋根をのせ、橋脚のない全国でも珍しい浮橋だ。
豊臣秀吉は塩飽水軍の650人に対し、朱印状により1250石の領地を与え、彼らは人名[にんみょう]と称し、その後、江戸時代末期までどの藩にも属さない独立自治を認められた。塩飽勤番所は人名から選ばれた3人の年寄りが交代で執務をとった政庁跡。寛政10年(1798)に建てられた白土塀の長屋門、本館、御朱印蔵などが残り、国の史跡に指定されている。本館内には信長、秀吉、家康らが与えた朱印状や航海図、古文書類、塩飽出身者が多かった咸臨丸乗組員の遺品などを展示。国指定史跡である。
土庄港のバス乗り場近くで観光客を迎えるブロンズ像。モチーフは『二十四の瞳』に登場する大石先生と12人の子供たちだ。平和への祈りを込めて昭和31年(1956)に制作された。背後にオリーブの木が茂り、小豆島観光のシンボルになっている。
本島の北東に位置し、塩飽水軍が本拠地としたところ。江戸後期~明治期の建物30数棟が残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。細い路地に沿って、白壁、なまこ壁や格子窓、虫籠窓[むしこまど]の家並みが続き、このうち真木[さなぎ]邸(笠島まち並保存センター)、真木[まき]邸(ふれあいの館)、藤井邸(文書館)の3棟が一般公開されている。
標高約66mの亀山に築かれた平山城。内堀から天守へ幾重にも積み上げられた石垣は、扇の勾配と呼ばれる美しい曲線を描く。現在の城の大部分は、丸亀藩主になった山崎家治[やまざきいえはる](崎の字は正しくは山+竒)が寛永20年(1643)に再建へ向けて着手し、明治維新まで城主だった京極家に受け継がれた。城跡全域が国指定史跡で亀山公園として整備されており、天守、大手一の門、大手二の門は国指定重要文化財。天守は全国に現存する木造天守12城の一つだ。日本城郭協会の「日本100名城」にも選定されている。
女木港周辺の集落で見られる高い石垣「オーテ」。局地的な強風を避けるため、明治初期から昭和の中ごろまでに建てられた石垣で、なかには4mを越すものも。独特な風景で島の暮らしを物語っている。
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