箕浦家武家門
県道323号を挟んで県庁と向かい合わせに立つ、旧藩士箕浦家二千石の武家門。堂々とした白壁造りで、もとは鳥取城南側の堀端に住んでいた箕浦近江屋敷の表門だったが、昭和11年(1936)に鳥取県師範学校の校門として、この場所に移築された。現在は鳥取市内に唯一残る武家門として保存されている。
- 「鳥取駅」から徒歩25分
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県道323号を挟んで県庁と向かい合わせに立つ、旧藩士箕浦家二千石の武家門。堂々とした白壁造りで、もとは鳥取城南側の堀端に住んでいた箕浦近江屋敷の表門だったが、昭和11年(1936)に鳥取県師範学校の校門として、この場所に移築された。現在は鳥取市内に唯一残る武家門として保存されている。
江戸時代、鳥取から畿内へ抜ける智頭往来の宿場として栄えた。智頭宿には、今も趣ある民家や古社寺が続く古い町並みが残る。40余りの部屋と、7棟の土蔵をもつ石谷家住宅(料金:500円、時間:10~17時、休み:水曜、祝日の場合は翌日、4~11月は無休、電話:0858-75-3500、因幡街道ふるさと振興財団)は、国指定重要文化財にも登録されている大規模な近代和風建築。豪壮な梁組みをもつ土間や、池泉庭園、茶室などは必見。
東郷湖と日本海の間を隔てる小高い丘には、古墳が多数点在。その一帯に芝、桜、ツツジなどを植えて整備したのが馬ノ山公園で、歌碑の点在する遊歩道もある。海と砂丘を一望する頂上には、遺跡からの出土品を展示したハワイ風土記館がある。
山中鹿介は戦国時代の武士。主君尼子氏再興のために尽力したが、天正6年(1578)、毛利との戦いに敗れ、安芸の国に護送される途中で非業の死をとげた。鹿野城を築いた亀井茲矩は鹿介の義弟にあたる。茲矩は鹿介の死から30年後、慰霊のために菩提寺として幸盛寺を建立し、墓碑を立てた。ちなみに幸盛寺の名は、鹿介の正式名である鹿介幸盛[ゆきもり]からきている。
吉川[よしかわ]川のほとりにそそり立つ、高さ13mの天然の岩窟内にある。投げ入れ堂方式の建物は、間口7m、奥行き10m、正面5.4m、側面7.1mで、国の重要文化財。現在の岩屋堂は室町時代初期(14世紀半ば)のものといわれ、鳥取県内有数の古建築だ。見上げると圧倒される。本尊は弘法大師作と伝えられる黒皮不動明王。毎年3月と7月の第4日曜日には護摩法要が行われ、本尊の不動明王が御開帳される。
斉尾廃寺跡(特別史跡)は、白鳳時代(7世紀後半~8世紀初頭)に建立された古寺の跡。建物は残っていないが、金堂の基壇や講堂跡の礎石が残る。本堂は南面し、東に金堂、西に塔を配した法隆寺式伽藍配置。山陰で唯一、特別史跡に指定されている。
因幡万葉歴史館近くの集落の中に立つ。刻まれている「新しき…」の1首は万葉集の最後を飾る家持の歌。手前には、万葉集の研究家としても著名な佐佐木信綱の歌碑がある。
初代光仲[みつなか]から11代慶栄[よしたか]までの鳥取藩主が眠る墓所で、国の史跡に指定されている。玉垣に囲まれた巨大な墓石群が整然と並んでおり、初代光仲の墓所は3段の台座の上に、江戸時代の大名の墓に特徴的な台石をのせた独特の形状で、高さは3m近くあり、藩主の絶大な力を物語る。宇倍神社からは徒歩10分。
弥生時代後期から古墳時代中頃の集落跡(史跡)で、住居100戸以上の大規模なもの。発掘後に埋め戻し、史跡公園として公開している。園内の福市考古資料館(料金:無料、時間:9時30分~16時30分、休み:火曜、祝日の翌日、電話:0859-26-3784)では市内からの出土品や考古資料が見られる。
明治時代の酒蔵を改装した魚のはく製史料館。700種類のはく製は全て中身のない本物。海のギャング「ホホジロザメ」や深海からの使者「リュウグウノツカイ」、かわいい巨体「マンボウ」が展示してあり、撮影もOK。キッズスペースもある。
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