
斗南藩士上陸の地
明治3年(1870)、新潟から海路をたどって藩士達が上陸した地のひとつが大湊大平浦(現、大湊新町)である。石碑は会津鶴ケ城の石垣に使用されている慶山石を用い、会津若松市を望む方角に設置されている。碑文の揮ごうは会津松平家第13代当主松平保定氏によるもの。
- 「大湊駅」から徒歩6分
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明治3年(1870)、新潟から海路をたどって藩士達が上陸した地のひとつが大湊大平浦(現、大湊新町)である。石碑は会津鶴ケ城の石垣に使用されている慶山石を用い、会津若松市を望む方角に設置されている。碑文の揮ごうは会津松平家第13代当主松平保定氏によるもの。
海上自衛隊大湊基地内にある大正5年(1916)建築の洋館。外壁には釜臥[かまふせ]山から採石した石材を使い、日本建築学会から大正・昭和の名建築にも指定されている。館内では明治から現在までの北方の海上防衛をテーマとした資料約1000点を展示。所要45分。
弘前城北門(亀甲門)の真向かいにあり、仲町伝統的建造物群保存地区に隣接している。津軽の豪商を代表する江戸時代の建築物として貴重な遺構だ。今もたばこ、地酒などを商っている。
天正14年(1586)に津軽藩祖・為信が設置した関所で、津軽藩の表玄関として警備の役割を果たしていた。現在は面番所[おもてばんしょ]、高麗門[こうらいもん]、冠木門[かぶきもん]を復元。面番所は資料館展示場として利用され、通行許可証や通行手形、刀剣などを展示し、等身大の人形で上番所や下番所などを再現している。
日露戦争時、軍医として従軍した三上剛太郎は手縫いの赤十字旗を作って多くの兵士の命を救い、世界から賞賛。その偉業を偲び、生家を修復・公開している。
京都の無鄰庵[むりんあん]、清風荘とともに明治時代作庭の三名園の一つに数えられる国指定名勝の庭園。代々この地の大庄屋を勤めていた清藤[せいとう]家二十四代盛美[もりよし]が、小幡亭樹を招いて造営した大石武学流の池泉廻遊式庭園で、明治35年(1902)から9年を費やして作庭された。庭園と融和して美しい盛美館は、明治41年(1908)に二十五代辨吉[べんきち]が、庭園を眺めるために建てた和洋折衷様式の建物。内部の蒔絵が見事な御宝殿は清藤家の霊廟(位牌堂)となっている。
中町こみせ通りに立つ江戸中期に建てられた商家の住宅。黒石藩御用達で主に米を扱ったことから屋号を「米屋」という。広い土間や吊り上げ式障子窓がある典型的な商家建築で、国の重要文化財に指定されている。現在も人が住んでいるため座敷に入ることはできないが、4~11月は庭園を望む喫茶処が営業。あんみつや汁粉が食べられる。
「県重宝」に指定される追手門広場内にある洋館。明治39年(1906)、名工・堀江佐吉によって建てられ、昭和6年(1931)までは市立図書館として使用されていた。八角形の双塔を左右に配した木造3階建てルネサンス様式を基調とした美しい建物で、内部を公開している。
夏は日差しを遮り、冬は雪を防ぐために造られた木造アーケード。藩政時代から残る伝統的建造物で、これほどまとまっているのは全国的に類例を見ないという。中町は当時から商家や造り酒屋、旅籠、呉服屋などが並ぶ商店街だった。9月の第2土・日曜には「黒石こみせまつり」を開催。2軒の造り酒屋の酒蔵が公開される。平成17年(2005)、重要伝統的建造物群保存地区に選定されているほか、高橋家(重要文化財)、造り酒屋の鳴海氏庭園など、文化財も点在している。
仲町伝統的建造物群保存地区にある武家住宅。江戸後期の建築物と推定される。
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