
飯盛山
JR会津若松駅の東に位置する標高314mの山。明治元年(1868)の戸ノ口原の戦いで敗走した白虎隊の自刃の地として知られる。中腹には白虎隊十九士の墓をはじめ、戦死三十一士の墓やイタリア・ローマ市寄贈の石柱碑など数多くの石碑が設置され、国指定重要文化財の「さざえ堂」が立つ。毎年4月と9月の春秋2回、白虎隊墓前祭が行われ、今も白虎隊の墓前には香煙が絶えることがない。石段が多いため、動く坂道のスロープコンベアを利用して山上に上がれば、鶴ヶ城や会津若松市街を一望することができる。
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JR会津若松駅の東に位置する標高314mの山。明治元年(1868)の戸ノ口原の戦いで敗走した白虎隊の自刃の地として知られる。中腹には白虎隊十九士の墓をはじめ、戦死三十一士の墓やイタリア・ローマ市寄贈の石柱碑など数多くの石碑が設置され、国指定重要文化財の「さざえ堂」が立つ。毎年4月と9月の春秋2回、白虎隊墓前祭が行われ、今も白虎隊の墓前には香煙が絶えることがない。石段が多いため、動く坂道のスロープコンベアを利用して山上に上がれば、鶴ヶ城や会津若松市街を一望することができる。
飯盛山の山腹に掘られた水路。江戸時代初期に、猪苗代湖の水を会津藩内に引くために開削に取り掛かったのが始まり。江戸末期には大改修が行われ、飯盛山には約150mの洞穴が掘られた。戸ノ口原での戦いに敗れた白虎士中二番隊の20名が、鶴ヶ城の安否を確かめるためにこの洞穴を通って飯盛山に出たと言われている。現在、内部はコンクリートの水路トンネルとなっており、秋には洞門くぐりが開催される。
国道49号を会津若松から猪苗代方面に向かい、294号と分岐するところにあるのが強清水。「福島県の名水30選」に選ばれた清水には屋根がかけられ、水を汲むことができる。放蕩息子の枕元に弁財天が現れ、その教えにより改心して親孝行をつくしたという伝説も残る。
鶴ヶ城三の丸跡に立つ県立博物館。常設展示室は、福島の原始から近・現代までの歴史や文化を紹介する総合展示室と、考古・民俗・自然などの分野別展示室から成る。東日本大震災の震災遺産である資料や、会津大塚山古墳から出土した鉄剣や銅鏡など、興味深い資料が常設展示されており、触って形や素材を知ることができるレプリカ資料の展示や3D画像が閲覧できる展示観覧サポートシステムも導入。企画展やテーマ展も開催されて何度訪れても楽しめる。会津塗や会津本郷焼の器で軽食や甘味が提供される雪国ものづくり食堂「つきない」も好評だ。
市民の憩いの場である「やすらぎ広場ホタルの森公園」では、例年6月上旬~下旬頃まで、幻想的なホタルの乱舞が観賞できる。神社の森周辺にある6000平方mの公園は、東屋、遊歩道、ホタル川、池などが配され、ホタルの生育に好ましい自然に恵まれた環境となっている。北会津地区で、地域ぐるみでの「ホタルの里づくり」が進められている。
かつて西会津の大地主の邸宅だった建物を移築・復元した郷土料理店。その2、3階で、主人が数十年かけて取り寄せたネパール、インド、チベットの仏像をはじめ、民族衣装や生活用具など約300点を展示。
古くから子宝祈願の人も訪れる芦ノ牧温泉。金精神社前にある足湯の子宝の湯で気軽に楽しもう。
新選組が京都守護職の松平容保のもとで市中取締りに尽力したことにちなみ、近藤勇の墓が立つ。墓には彼の遺髪や骨が納められているといわれる。土方歳三が藩主・容保公に願い出、会津藩の手により建立されたものである。隣には土方の戒名を刻んだ慰霊碑が立っている。
京都から源義経の奥州行の後を追い、この地で力つきて難波池に身を投げたという皆鶴姫の墓があり、悲恋の物語を伝える由来書きが立つ。この地を参詣すると、良縁が授かるといわれている。
新選組ゆかりの七日町通りにある明治22年(1889)建築の蔵を利用し、1階は骨董品などレトロな商品が並ぶ「骨董むかしや」、2階は会津藩や新選組の資料などを入れ替えながら展示する「会津新選組記念館」となっている。新島八重が戊辰戦争で使用したのと同型のスペンサー銃など、貴重な古式銃の展示もみられる。
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