
厳魂神社(奥社)
金刀比羅宮御本宮から、さらに583段の石段を登った所にある。御祭神は厳魂彦命[いづたまひこのみこと]で、江戸期に金毘羅大権現別当金光院主だった金剛坊宥盛大人[こんごうぼうゆうせいうし]を祭っている。
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金刀比羅宮御本宮から、さらに583段の石段を登った所にある。御祭神は厳魂彦命[いづたまひこのみこと]で、江戸期に金毘羅大権現別当金光院主だった金剛坊宥盛大人[こんごうぼうゆうせいうし]を祭っている。
奥の院にある大師堂は玉依御前[たまよりごぜん]が弘法大師である空海を出産したと伝わる産屋跡。唐の国より修業後、空海が開山した最初の真言宗の根本霊地でもある。敷地面積8万坪を誇り、境内が海に面した珍しい寺で夏は海水浴やバーベキューで賑わう。日本全国から集められた花木(アジサイや竹、桜、萩など)で四季折々の自然が楽しめる「まんだら園」も魅力的。毎月28日10時から行われる護摩には全国から大勢の信者が集う。四国別格二十霊場18番札所、四国三十六不動霊場31番札所、讃岐十二支霊場卯年守り本尊文殊菩薩札所。
寺伝によると、7歳の弘法大師が人々を救いたいと発心、「わが願いが叶うなら釈迦如来よ姿を現したまえ、もし叶わぬのならこの身を諸仏に捧げる」と我拝師山の断崖から身を投げた。すると釈迦如来と天女が現れ、天女に抱きとめられたという。
大宝3年(703)創建。琴を神宝とし技芸を司る神様。山中復の「木之鳥居」は、源義経が屋島合戦の後、平家追討を祈願し奉納したと伝わる。
四国霊場第67番札所。寺伝では熊野三所権現鎮護[くまのさんしょごんげんちんご]のために東大寺末寺として、天平14年(742)に建立され、延暦11年(792)に弘法大師が巡錫[じゅんしゃく]、弘仁13年(822)嵯峨帝勅願によって再興されたとされ、地元では小松尾寺の名で親しまれている。真言宗と天台宗の修行道場として栄え、境内に大師堂と天台師堂があるのはその名残り。現在の本堂は寛保元年(1741)の再建、仁王門に安置された高さ3mを超える木造金剛力士像は運慶作といわれ、四国霊場で最大のものだ。弘法大師のお手植えという樹齢1200年の大楠、カヤの木も見ておきたい。
享禄元年(1528)俳諧の祖・山崎宗鑑が興昌寺に結んだ数奇屋造りの庵。名前は宗鑑が来客の一夜以上の滞在を許さなかったことに由来。
弘法大師が大同2年(807)に建立したと伝えられる四国霊場第70番札所。鎌倉後期建立の国指定重要文化財の二王門をくぐると、境内には大師堂や十王堂、大日堂などの堂宇が立ち並び、大寺の風格が漂う。正面に立つ鎌倉後期の正安2年(1300)に建てられた寄棟造、本瓦葺きの本堂は国宝。左手に堂々立つ五重塔は、明治43年(1910)に完成したものだ。
8世紀に行基が開基し、弘法大師が少年時代に学問を積んだとされる寺で、四国霊場第71番札所。標高382mの弥谷山の中腹に堂宇が並び、いちばん奥の本堂まで550段近い石段を登っていく。本堂下の岩壁に阿弥陀如来を中心に3尊の磨崖仏[まがいぶつ]が彫られている。帰りに大師堂へ寄り、弘法大師が学問した獅子窟[ししのいわや]がある奥の院を拝観(時間:7~17時)したい。
日本最大の溜池、満濃池を鎮護する寺。周辺には桜が数多くあり、満濃池森林公園は桜の名所として知られる。近年は紅葉をはじめ四季折々の花で参拝者を迎えてくれる。
四国霊場で、唯一の一山二霊場。同一の境内に2つの札所が存在し、納経も同一の納経所で二ケ寺分行う。第69番札所観音寺の朱塗りの本堂(金堂)は重要文化財。
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