般若寺
高句麗の慧灌法師が創建したと伝わる。鎌倉時代の優美な楼門(国宝)を旧街道に面して構え、境内の中心に鎌倉時代の十三重石塔(重要文化財)が立つ。コスモスでも名高い。また、カーナビ利用の場合、記載住所では裏口に案内されるため要確認。
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高句麗の慧灌法師が創建したと伝わる。鎌倉時代の優美な楼門(国宝)を旧街道に面して構え、境内の中心に鎌倉時代の十三重石塔(重要文化財)が立つ。コスモスでも名高い。また、カーナビ利用の場合、記載住所では裏口に案内されるため要確認。
東大寺の正門。重層入母屋造の豪壮な門で、高さ約25m。鎌倉復興期に再建された、大仏様[だいぶつよう]の代表的な遺構。阿[あ]・吽形[うんぎょう]の2体の木造金剛力士(仁王)像(国宝)は、運慶[うんけい]・快慶[かいけい]など、慶派仏師一門がわずか69日で制作したと伝わる。
聖徳太子が平群[へぐり]に建立した熊凝精舎[くまごりしょうじゃ]が始まりと伝わる。国家鎮護の官寺として宮都の変遷とともに各地を移転。平城遷都後、現在地に定まり大安寺と号した。東大寺、西大寺と並んで南大寺[なんだいじ]とも呼ばれ、壮大な伽藍を誇ったが、中世以降衰微。天平末期から弘仁時代の木彫仏を多数安置する。本堂の十一面観音立像(重要文化財)、嘶[いななき]堂の馬頭観音立像(重要文化財)は秘仏。讃仰[さんごう]殿安置の楊柳[ようりゅう]観音立像(重要文化財)、四天王立像(重要文化財)などは通年拝観できる。
興福寺にある、高さ約50mの塔。古塔としては京都・東寺の五重塔に次ぐ高さで、奈良のシンボルとして親しまれている。天平2年(730)、光明皇后によって創建されたが、たびたび焼失。現在の塔は6度目の再建だ。室町時代の建築ながら、東金堂と同様、天平様式を踏襲している。現在は約120年ぶりの修理工事が進められ、令和13年(2031)3月までの予定となっている。
朝廷の寄進により、平城宮朝堂院[ちょうどういん]の東朝集殿[ちょうしゅうでん]を唐招提寺に移築したもの。正面9間、側面4間の入母屋造。数度の改修を経ているが、天平時代の宮殿建築唯一の遺構だ。講堂としても、法隆寺東院伝法堂と並ぶ天平期の数少ない例。本尊は飛天などの透彫がある二重円相光背を負う弥勒仏坐像(重要文化財)で、鎌倉時代の作。両脇に天平末期作の持国天[じこくてん](重要文化財)と増長天[ぞうちょうてん](重要文化財)を従える。
天平3年(731)、平城宮の鬼門を護るため光明皇后によって創建され、平城宮の東北隅に位置したことから隅寺とも呼ばれる。遣唐使として唐に渡った玄ぼうが帰国の途中に東シナ海で暴風雨に襲われた際、海龍王経を一心に唱え、九死に一生を得て無事に帰国を果たしたことから、現在も旅行や留学に赴く人が参拝に訪れる。西金堂(天平時代・重要文化財)には天平時代の塔で唯一現存する五重小塔(国宝)が安置され、本堂には金泥のお婆に装身具と切金文様が美しい鎌倉時代に造立された十一面観音立像(重要文化財)が安置されている。
光明皇后が、父藤原不比等[ふひと]の邸宅跡に建てた総国分尼寺で、法華滅罪之寺[ほっけめつざいのてら]と称した。平安遷都後は衰退したが、慶長6年(1601)に豊臣秀頼、淀殿により現在の本堂(重要文化財)、鐘楼(重要文化財)、南門(重要文化財)が再建された。本尊の木造十一面観音立像(国宝)は光明皇后がモデルといわれるが、特別開扉時以外は御分身(模刻像)を拝する。本坊の庭園は名園として名高い。
東大寺建立の際に、守護神として宇佐八幡を勧請して創建された。本殿は元禄4年(1691)の再建。校倉造の宝庫(重要文化財)は東大寺から移築された天平建築。社宝に唐鞍[からくら](国宝)、舞楽面(重要文化財)などがある。
奈良時代、吉城川沿いの春日野に造られた氷池や氷室(氷の貯蔵庫)の守り神を祭ったのが始まりといわれ、のちに現在地に移された。製氷・販売業者の信仰が篤く、毎年5月1日には献氷祭を開催。
一条天皇の発願で正暦3年(992)に創建。往時は86の坊があったが、現在は本堂、客殿(重要文化財)のある福寿院などと、坊舎の跡を偲ばせる石垣を残すだけ。秋の紅葉も見事だ。
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