
無量光院跡
藤原秀衡[ひでひら]が京都・宇治の平等院鳳凰堂にならって建てたという寺院の跡。平等院よりも大きかったと言われるが、火災で消失してしまった。ここから中尊寺へ向う前に4~5分東へ道をそれると、奥州藤原氏時代の政庁であった平泉館跡といわれる柳之御所遺跡(史跡)[やなぎのごしょいせき]がある。
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藤原秀衡[ひでひら]が京都・宇治の平等院鳳凰堂にならって建てたという寺院の跡。平等院よりも大きかったと言われるが、火災で消失してしまった。ここから中尊寺へ向う前に4~5分東へ道をそれると、奥州藤原氏時代の政庁であった平泉館跡といわれる柳之御所遺跡(史跡)[やなぎのごしょいせき]がある。
戦国時代に終わりを告げた、豊臣秀吉の天下統一最後の戦いとして知られる、九戸政実[くのへまさざね]の乱の合戦場。地形を巧みに生かした平山城は、馬淵[まべち]川、白鳥川、猫淵川を天然の堀とし、現市街地をも含む壮大なスケールで、国の史跡に指定されている。本丸跡には東北最古とされる石垣がわずかに残り、土井晩翠[どいばんすい]の『荒城の月』の歌碑も立っている。平成29年(2017)4月、「続日本100名城」に選定された。
渋民公園内にあり、「やはらかに柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」と刻まれた石碑。鶴飼橋の上の小高い丘に立つ。大正11年(1922)に完成した全国第1号の啄木の歌碑だ。渋民の青年たちによって建てられ、高さは4.5m。
平成23年(2011)、世界遺産に登録された平泉。奥州藤原氏が浄土思想に基づいて築き上げた中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡の4カ所の国指定特別史跡と金鶏山の計5カ所から構成される文化遺産。奥州藤原氏は、11世紀末に初代藤原清衡が奥州(陸奥)を統治し、四代泰衡が源頼朝によって滅ぼされるまでの約100年間にわたり栄華を極めた一族。平泉には、合戦で妻子を失った清衡が建立した中尊寺をはじめ、浄土思想を現生で表現した複数の遺構や遺跡が一群としてよく残っており、その独自の浄土世界を表現した建築や庭園は世界的にも珍しい。黄金文化を代表する国宝中尊寺金色堂や国指定特別名勝の毛越寺庭園などは見逃せない。
藤原基衡[もとひら]の妻が建立した寺院跡。境域は東西120m、南北約180mで西域に土塁の一部が残る。浄土庭園には大・小の阿弥陀堂が建っていた。現在ではその跡に発掘に基づいて舞鶴ケ池が復元され、史跡公園として整備されており、憩い場として親しまれている。
国指定史跡・達谷窟毘沙門堂西側の大岩面壁に、11世紀に彫られたといわれる大磨崖仏[だいまがいぶつ]。高さ約16.5m、顔の長さ約3.6mもの貴重なもので、「北限の磨崖仏」として有名だ。明治29年(1895)、胸から下が崩落。風化が激しく、現在は顔のみが残る。
盛岡出身の実業家・瀬川安五郎が明治18年(1885)頃に建てた邸宅・庭園。130年余りの間に所有者が変わるなかで、当時の姿のまま継承されている。名園は国の登録記念物・盛岡市の保護庭園に、邸宅は同市の保存建造物に指定。1100坪の敷地内に、風情あふれる池や茶室が配されている。また、作品展やイベントの会場としても活用され、抹茶420円やコーヒー420円も飲める。
賢治の詩「雨ニモマケズ」の後半部分が高村光太郎の筆により刻まれた碑。羅須地人協会の跡地にある。
今ではほとんど見ることができない、情緒ある水車がここでは健在。付近の人々の脱穀や製粉に利用されている。
石川啄木の歌碑が目印の公園。姫神山[ひめかみさん]、岩手山が望め、すぐそばの北上川に架かる鶴飼[つるかい]橋からの眺めがすばらしい。園内には売店や、休憩所もある。
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