元明天皇陵・元正天皇陵
黒髪山にある。文武天皇から聖武天皇へ皇位をつなぐために相次いで皇位に即いた母娘の女帝の陵墓。どちらも南に拝所がある。
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黒髪山にある。文武天皇から聖武天皇へ皇位をつなぐために相次いで皇位に即いた母娘の女帝の陵墓。どちらも南に拝所がある。
奈良の古都平城京にあった平城宮の中心的な施設が大極殿。第一次大極殿は、世界遺産に登録されている平城宮跡にあり、朱雀門の真北約800mの位置に堂々と立っている。発掘調査と研究の結果を元に、9年の歳月をかけて復原された。正面約44m、側面約20m、高さ約27mの平城宮最大の宮殿で、屋根は二重の入母屋造。内部は、朱色の直径70cmの丸柱44本と美しく組まれた入組天井で構成され、四方を巡る小壁には上村淳之画伯により四神・十二支が描かれている。中央に置かれている高御座は天皇が着座する玉座。
謀反の嫌疑を掛けられ抹殺された長屋王の変で知られる長屋王は、政界の実力者だが、佐保楼と呼ばれた邸宅(別邸?)は文化サロンでもあり、自身も懐風藻や万葉集に詩歌を残している。仏教に深く帰依し、中国に1000の袈裟を送ったとも伝える。その際に付けた漢詩「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」が鑑真に渡日を決意させる一因となったという。現イトーヨーカ堂奈良店あたりに広大な敷地があったことが出土木簡からわかっている。
「あおによし寧楽[なら]の都は咲く花の匂うがごとく今盛りなり」と詠まれた平城京は、和銅3年(710)に藤原京から遷都された。以後70年余、日本の政治経済文化の中心として栄え、天平文化が華開いた。宮跡は1.1km四方で東へ300mの張り出しがある広大な広さ。全域が国の特別史跡で、世界文化遺産「古都奈良の文化財」の構成遺産の一つとしても登録。発掘調査結果に基づき、第一次大極殿、大極門、朱雀門、東院庭園などの建物や庭園が復元されており、遺構展示館では発見当時の状態で遺構を保存・展示している。平城宮跡を中心に国営公園「平城宮跡歴史公園」としての整備も進められている。
志賀直哉は昭和4年(1929)から9年間ここで暮らし、長編『暗夜行路』を完結させた。塀に囲まれた屋敷は、数寄屋造を基調としながら洋風を取り入れたサンルームや食堂が特徴的。当時、高畑近辺に住んでいた文人墨客がここに集い、高畑サロンと呼ばれた。奈良県有形文化財。
江戸中期に建てられた農家。入母屋造で軒が低く、覆い被さるような茅葺き屋根が印象的だ。内部は東半分が土間で、西半分の居室部は前方に座敷、後方に台所と納戸を配した三間取り。古い形式を留めた小型住宅の例として貴重。
奈良町の伝統的な町家を再現した建物。隣家との距離を十分に確保できない住宅密集地で採光や通気を確保するための坪庭や、限られたスペースを有効活用するため階段と収納が一緒になった箱階段など、生活の知恵が至る所に見られる。
柳生藩陣屋は、柳生宗矩[むねのり]が寛永19年(1642)に建設したが、約100年後に焼失。仮建築のまま明治維新を迎え、現在跡地は史跡公園化されている。石積で往時の建物の位置を表示、桜や松も植樹され、憩いの場となっている。
佐紀盾列古墳群、日葉酢媛命陵の西にあり、奈良時代の女帝孝謙(称徳)天皇の陵墓とされる。東西方向の不整形な前方後円墳で、西に拝所がある。孝謙(称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后の娘で、西大寺を建立したことで知られている。
佐紀盾列古墳群の中にあり、垂仁[すいにん]天皇の皇后、日葉酢媛命の陵墓とされる。全長203mの前方後円墳で、巨大な蓋[きぬがさ]形埴輪などが出土した。『日本書紀』によると、垂仁天皇は皇后の死去にあたり、殉死の風習をやめさせるため、初めて埴輪を用いたという。
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