
奈良駅
瓦屋根に相輪[そうりん]をのせた、和洋折衷建築の旧駅舎。鉄筋コンクリート造り2階建てで、昭和9年(1934)に2代目駅舎として完成。古都の玄関口らしい佇まいで、旧駅舎をバックに記念撮影する観光客も多い。旧駅舎は移設、保存され、奈良市総合観光案内所として活用されている。
- 「奈良駅」から徒歩2分/「近鉄奈良駅」から徒歩14分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
瓦屋根に相輪[そうりん]をのせた、和洋折衷建築の旧駅舎。鉄筋コンクリート造り2階建てで、昭和9年(1934)に2代目駅舎として完成。古都の玄関口らしい佇まいで、旧駅舎をバックに記念撮影する観光客も多い。旧駅舎は移設、保存され、奈良市総合観光案内所として活用されている。
奈良町の伝統的な町家を再現した建物。隣家との距離を十分に確保できない住宅密集地で採光や通気を確保するための坪庭や、限られたスペースを有効活用するため階段と収納が一緒になった箱階段など、生活の知恵が至る所に見られる。
第9代開化天皇の陵とされる前方後円墳。全長約100m、後円部径48m、前方部幅48m。三条通りから北に参道が延びており、付近は繁華街の近くとは思えないような静けさに包まれている。
土と石を積み上げた特異な塔。奈良時代に東大寺の実忠[じっちゅう]が造ったと伝わり、近年、高さ10m、7段のピラミッド状に復元された。見学は要連絡。
黒髪山にある。文武天皇から聖武天皇へ皇位をつなぐために相次いで皇位に即いた母娘の女帝の陵墓。どちらも南に拝所がある。
佐紀盾列古墳群の中にあり、垂仁[すいにん]天皇の皇后、日葉酢媛命の陵墓とされる。全長203mの前方後円墳で、巨大な蓋[きぬがさ]形埴輪などが出土した。『日本書紀』によると、垂仁天皇は皇后の死去にあたり、殉死の風習をやめさせるため、初めて埴輪を用いたという。
唐招提寺境内の北側に位置する御影堂は入母屋造、銅板葺きの瀟洒な堂宇。元は興福寺別当の一乗院御殿として慶安2年(1649)に建立されたもので、国指定重要文化財。明治期に奈良県庁舎や裁判所庁舎として使用され、昭和39年(1964)に現在地に移築、建立当時の姿に復原された。堂内の厨子には日本最古の肖像彫刻とされる鑑真和上坐像を安置。像高80cmの像は、和上の死を予感した弟子の忍基らによって制作されたと伝わり、瞑想する和上の姿を忠実に表した傑作だ。襖絵は日本画家・東山魁夷の作。
柳生藩陣屋は、柳生宗矩[むねのり]が寛永19年(1642)に建設したが、約100年後に焼失。仮建築のまま明治維新を迎え、現在跡地は史跡公園化されている。石積で往時の建物の位置を表示、桜や松も植樹され、憩いの場となっている。
謀反の嫌疑を掛けられ抹殺された長屋王の変で知られる長屋王は、政界の実力者だが、佐保楼と呼ばれた邸宅(別邸?)は文化サロンでもあり、自身も懐風藻や万葉集に詩歌を残している。仏教に深く帰依し、中国に1000の袈裟を送ったとも伝える。その際に付けた漢詩「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」が鑑真に渡日を決意させる一因となったという。現イトーヨーカ堂奈良店あたりに広大な敷地があったことが出土木簡からわかっている。
志賀直哉は昭和4年(1929)から9年間ここで暮らし、長編『暗夜行路』を完結させた。塀に囲まれた屋敷は、数寄屋造を基調としながら洋風を取り入れたサンルームや食堂が特徴的。当時、高畑近辺に住んでいた文人墨客がここに集い、高畑サロンと呼ばれた。奈良県有形文化財。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。