
西光寺
柴田勝家の菩提寺。秀吉軍に攻められ、北の庄城で命を絶つに先立ち、3人の姉妹の将来などを住職に託したと伝えられる。境内には勝家とお市の方の墓があり、勝家の自筆の書や刀剣、金の御幣の馬標[うまじるし]、明治7年(1874)に発掘された北の庄城の鬼瓦などを展示する柴田勝家公資料館(料金:入館300円、時間:12~16時※要予約)もある。
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柴田勝家の菩提寺。秀吉軍に攻められ、北の庄城で命を絶つに先立ち、3人の姉妹の将来などを住職に託したと伝えられる。境内には勝家とお市の方の墓があり、勝家の自筆の書や刀剣、金の御幣の馬標[うまじるし]、明治7年(1874)に発掘された北の庄城の鬼瓦などを展示する柴田勝家公資料館(料金:入館300円、時間:12~16時※要予約)もある。
吉崎寺は文明3年(1471)に蓮如上人が布教を行った吉崎唯一の旧跡寺で、現在の本堂は昭和52年(1977)の再建。蓮如上人の自画像や自筆の経文のほか、嫁おどし肉付きの面などを展示する宝物館(料金:500円、時間:8~17時)がある。この面は、嫁の信仰を妨げようと姑がかぶり脅かしたところ、顔から離れなくなったという説が残る。
「おそんじゃさん」とよばれて親しまれている越前国の総社。古代の国司の仕事に、その国にある主な神社を毎年巡拝するというのがあったが、総社は神々を一ヵ所に集めて祭り、そこを参拝することで国内巡拝に代えようとしたもの。国府のあるところには必ず置かれていた神社で、境内には越前国府の石碑が立つ。古来から越前の代表的な神社として信仰を集め、その賑わいの様子は鎌倉時代の『一遍上人絵伝』に描かれている。
北陸三十三霊場の第7番札所。本堂には、弘法大師一夜の作と伝わる、花崗岩に刻まれた聖観世音菩薩が安置されている。右手がないため片手観音とも呼ばれる秘仏で、33年ごとに開帳される。次回の開帳日は2026年10月中旬ごろの予定だ。手足の病気やケガにご利益があるとされる。
昔から漁師の守り神として信仰を集める観音様。本尊の十一面観音が安置されている。像は唐様式で、泰澄大師の作といわれる。
創建は天智天皇の時代と伝わる臨済宗の古刹。江戸初期に作庭された県指定名勝の庭園では、梅雨時にモリアオガエルの産卵が見られる。大日堂と呼ばれる堂内には、木造大日如来坐像と木造不動明王立像が安置されており、いずれも平安時代に作成されたという国指定重要文化財。
永徳元年(1381)に現在地に移転して以来、朝倉氏や福井藩主松平氏の祈願所となった真言宗の寺。三国の豪商森田家や新保の竹内家の墓があり、立ち並ぶ五輪塔が当時の商人の財力を物語る。
泰澄大師が養老5年(721)に、元正天皇の勅願を受け、阿弥陀堂を創建して開山されたといわれている古刹。暦応元年(1338)、南北朝時代の武将新田義貞は、越前の灯明寺畷(現:福井市新田塚)の戦いで戦死し、その首は京都へと運ばれたが、放置された亡骸は新田義貞と交友のあった称念寺住職によって手厚く葬られ、以後、新田義貞の菩提寺として知られるようになった。戦国時代には、越前朝倉家の下で浪人生活をしていた明智光秀が一時期門前で生活していたとも伝えられており、後に松尾芭蕉が詠んだ「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」は、この時の明智夫妻の生活ぶりを詠んだものといわれている。
大宝2年(702)創建の古社。伊奢沙別命[いざさわけのみこと]をはじめ7柱の神を祭り、「けひさん」の名で親しまれる。高さ10.9mの大鳥居(重要文化財)は、奈良の春日大社、広島の嚴島神社と並ぶ日本三大木造鳥居の一つ。境内には神宮に縁のある松尾芭蕉像や句碑も立つ。
聖武天皇の勅願によって諸国に建立された国分寺の一つで、慶長15年(1610)建立の釈迦堂のみ現存し、本堂などは遺構が国指定の史跡となっている。木造薬師如来坐像(重要文化財)が安置される。
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