
壇上伽藍 金堂
奥之院とともに高野山の二大聖地の一つとされる壇上伽藍の中央に位置する御堂。創建当時には講堂と呼ばれていたもので、高野山の開創当時からの歴史をもつという高野山一山の総本堂だ。現在も高野山の重要行事の多くがこの金堂で執り行われている。度重なる火災に遭い、現在の金堂は昭和7年(1932)に再建されたもの。本尊薬師如来像は、明治時代の彫刻家・高村光雲の作で秘仏。
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奥之院とともに高野山の二大聖地の一つとされる壇上伽藍の中央に位置する御堂。創建当時には講堂と呼ばれていたもので、高野山の開創当時からの歴史をもつという高野山一山の総本堂だ。現在も高野山の重要行事の多くがこの金堂で執り行われている。度重なる火災に遭い、現在の金堂は昭和7年(1932)に再建されたもの。本尊薬師如来像は、明治時代の彫刻家・高村光雲の作で秘仏。
高野山壇上伽藍にあり、高さ約50mの5間4面の多宝塔で真言密教の根本理念を表す。弘法大師が着手し、2代座主の真然大徳[しんぜんだいとく]のときに完成。天保14年(1843)に焼失し、以後再建されずにいたが、昭和12年(1937)に再建。内部は大日如来の本尊を中心に東西南北に金剛界四仏を置き、周囲の柱に十六大菩薩を配し、曼陀羅を立体的に表している。
平安初期に弘法大師が開創した仏教の聖地・高野山。本来の総本山金剛峯寺とは、「一山境内地」といわれるように高野山全体を指すが、壇上伽藍の東北に位置する「総本山金剛峯寺」は、高野山真言宗管長が居住し、高野山全体の宗務を司っている寺院。明治初期に、豊臣秀吉が建立した青巌寺と興山寺が合併し、寺号を金剛峯寺と改め総本山が置かれた。約16万平方mという広大な境内には、檜皮葺きの大屋根を持つ東西54m、南北63mの主殿(本坊)をはじめ、経蔵や鐘楼、別殿、奥殿、阿字観道場などが立ち並ぶ。奥殿の石庭・蟠龍庭が見事。
壇上伽藍とともに高野山の二大聖地といわれる奥之院。墓石や供養塔が並び立つ約2kmの参道の最奥に位置するのが弘法大師(空海)の御廟。参道の最後の橋・御廟橋を渡った先、御廟の拝殿にあたる燈籠堂の背後に立つ、檜皮葺きの宝形造の御堂。大師が自らこの地に廟所を定めたとされ、大師62歳の承和2年(835)、即身成仏となって入定。入定後から現在まで1日2回行われている「生身供[しょうじんぐ]」は御廟の空海に食事を届ける儀式で、大師は今もこの御廟で瞑想しながら救いの手を差しのべているといわれる。
平安時代初期の弘仁7年(816)に、弘法大師(空海)が開山した真言密教の聖地。本来は、高野山全体が「総本山金剛峯寺」であり、「一山境内地」といわれるように高野山全域がその境内地だ。高野山という山はなく、周囲を8つの峰に囲まれた標高約900mの山上盆地に、国指定史跡の壇上伽藍と奥之院の二大聖地を中心に117カ寺が集い、一大宗教都市を形成。ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産にも登録されており、今もなお大師信仰を求める参拝客をはじめ、観光や宿坊体験、森林セラピーなどで多くの人々が訪れる。
奥之院とともに高野山の二大聖地とされるのが「壇上伽藍」。真言密教の根本道場のために弘法大師が最初に着手し創建した密教伽藍で、「胎蔵曼荼羅」の世界を表しているといわれている。壇上伽藍の“壇上”は仏様の世界、“伽藍”は諸堂が集まっている場所、という意味をもつ。壇上伽藍境内には、高野山一山の総本堂である金堂を中心に、壇上伽藍のシンボルである根本大塔や弘法大師御影像を奉安する御影堂、大会堂、東塔、西塔など19もの御堂が立ち並んでいる。
高野七口の一つ、不動口に現存する唯一の女人堂。かつて七口すべてにあった女人堂は高野山が女人禁制だったころに、女性が真言をひと晩中唱えていた場所。高野山の外周には女人道があり、女性は峯から峯を巡りながら樹間から垣間見える壇上伽藍や奥の院に手を合わせて参拝したといわれる。明治になって女人禁制が解かれたあとは、参拝者の休憩所に利用された。
弘法大師(空海)が弘仁7年(816)に開いた真言密教の聖地・高野山。その高野山で最も清浄な聖地が大師入定の御廟がある奥之院。奥之院入口となる一の橋(大渡橋[おおばし])から燈籠堂・御廟まで、鬱蒼と茂る杉木立の参道が約2kmに渡って続き、参道沿いには20万基以上もの墓石や供養塔が並び立って戦国大名などの墓を訪ね歩くことができる。玉川に架かる御廟橋を渡ると、拝堂の燈籠堂とその背後に承和2年(835)に入定した大師の御廟が立つ。燈籠堂には貧女の一灯や長者の万灯(白河燈)と呼ばれる常明燈のほか2万基もの献燈が灯り壮観だ。
壇上伽藍の境内の蓮池畔に立つ、高野山内に現存する建物の中で最古の堂。建久9年(1198)に行勝上人が一心院谷に創建したものを明治時代にこの地に移築した。勾配のゆるい檜皮葺きの屋根を持つ現在の建物は鎌倉時代後期のものといわれ、国宝に指定。本尊の不動明王坐像(国指定重要文化財)と運慶作の八大童子立像(国宝)はいずれも高野山霊宝館に収蔵されている。不動堂の拝観は外観のみ。
奥之院御廟の前室として、真然[しんぜん]が創建。奥之院参道正面の石段上にあり、弘法大師へ献上するたくさんの灯籠が堂内いっぱいに下げられている。なかでも長和5年(1016)、祈親[きしん]上人が高野山の復興を祈念して献灯した祈親燈は、貧しいお照という娘が髪を切って売り、献じたものと伝えられ、俗称「貧女の一灯」ともいわれる。寛治2年(1088)に白河法皇が献じた白河燈とともに「消えずの燈明」とよばれ、絶えることなく燃え続けている。建物は昭和中期の改築で、地下には多数の奉納燈籠が並ぶ「地下法場」もある。
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