血捨之木
字で見すると不思議な地名だが、これはサノノミコト(神武天皇)がお生まれになられた際、母タマヨリヒメが諸物を洗い浄めた場所との言い伝えに基づくとか。
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字で見すると不思議な地名だが、これはサノノミコト(神武天皇)がお生まれになられた際、母タマヨリヒメが諸物を洗い浄めた場所との言い伝えに基づくとか。
豪商だった山本猪平が明治40年(1907)頃に建築。飫肥の商人屋敷を今に伝える貴重な遺構。昭和4年(1929)に増築した以外は、ほぼ建築当初のまま。
江戸時代、飫肥藩(伊東氏)五万一千石の城下町として栄え、九州の小京都ともよばれる飫肥。武家屋敷と町家からなる城下町に、古い石垣や生垣、門が見られる。観光の中心となるのは、伊東氏14代の居城・飫肥城。当時は本丸・松尾の丸など11の曲輪を配した南九州型の城。戦国時代には島津豊州家と伊東義祐の間で天文10年(1541)から永禄11年(1568)の28年余りに及ぶ争奪戦が展開された。現在の城跡には、元禄6年(1693)に築かれた石垣などがそのまま残っている。昭和53年(1978)には現在の大手門が、樹齢 100年以上の飫肥杉を使って再建された。
国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受け、明治、大正、昭和の初期に盛栄えた港町として、今でも歴史的な景観を維持しており、センター内は来館者のお休み処として利用できる。
天平13年(741)に聖武天皇の詔で建立された、日向国の国分寺の跡で、五体の如来像が安置される木喰五智館(時間:8時30分~17時 休み:無休)が最大のみどころ。円空と並び称される木喰上人の作で、江戸時代に訪れたときに残したもの。彼の作品の中で最も巨大な如来像といわれる。日向国分寺は国指定史跡に、五智如来像は宮崎県指定美術工芸品にそれぞれ指定されている。
各地に残る江戸時代初期の書院造りの御殿を参考にして、昭和54年(1979)に建築された。建物は御座の間、茶室、御寝所、湯殿、台所、御蔵などから構成され、このうち湯殿は、国宝である西本願寺の飛雲閣のものを模したこけら葺きの総桧造りの蒸し風呂となっている。
廻船問屋であった明治17年(1884)築の商家を一般公開している。重厚感ある佇まいはもちろん、土間や太い梁など古民家好きは必見の建物。
この地で天皇親率の水軍が初めて編成されたことから、日本海軍発祥の地とされ、港には巨大なモニュメントがある。すぐそばには神武天皇が海上安全を祈願したといわれる立磐神社があり、境内には神武天皇が腰掛けたといわれる「お腰掛け岩」が祭られている。
慶長8年(1603)、初代藩主・高橋元種が築いた延岡城跡を整備した公園。日本三大ヤブツバキ群のひとつとして知られる園内は、冬になると鮮やかな色合いの花が咲きほころぶ。重厚な北大手門をくぐると見えてくる高さ19mの石垣は、ひとつの礎石を外すとすべての石が崩れ落ちるといわれ、「千人殺しの石垣」と呼ばれている。丘陵頂上部の広場からは日向灘を一望でき、城山の鐘が時を知らせている。平成29年(2017)4月6日(城の日)に「続日本100名城」に選ばれた。
飫肥城跡の大手門に向かって左手に立つ武家屋敷。明治になって藩主の伊東祐帰[いとうすけより]が知藩事に任ぜられ、城内からここに移り住んだ。屋敷の南にある庭園は、広い空間に庭石や石灯籠、庭木などを配して作庭された名庭だ。
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