青の洞門
本耶馬渓の景勝地・競秀峰の崖下を通る洞門。僧・禅海が30年余りをかけてノミと槌だけで掘ったといわれ、明和元年(1764)に完成した。全長約342mでトンネル部分は144m。その逸話は菊池寛の小説『恩讐の彼方に』のモデルとなった。明治後期の大改修で当時の状態からはかなり変化しているものの一部に明り採り窓や、ノミの跡が残っている。
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本耶馬渓の景勝地・競秀峰の崖下を通る洞門。僧・禅海が30年余りをかけてノミと槌だけで掘ったといわれ、明和元年(1764)に完成した。全長約342mでトンネル部分は144m。その逸話は菊池寛の小説『恩讐の彼方に』のモデルとなった。明治後期の大改修で当時の状態からはかなり変化しているものの一部に明り採り窓や、ノミの跡が残っている。
弥生時代の住居や倉庫が復元された、体験型の史跡公園。火おこし100円や勾玉づくり300円などの体験ができる。歴史体験学習館では、遺跡から発掘された安国寺式土器のほか、住居の建築部材や、国東の石造物などを展示。
天正18年(1588)、黒田官兵衛孝高(如水)が、山国川河口の地に築城した海城。細川家、小笠原家の後、享保2年(1717)から奥平家の居城となり、廃藩置県まで統治した。奥平家は産業振興、蘭学振興等を行い、前野良沢や福澤諭吉などを輩出する土壌となった。現在の城は、昭和39年(1964)に奥平家が中心となって中津市民の協力のもと、再建したもので、五層の天守閣と二層の櫓から成り、一帯は中津城公園として整備されている。天守閣内部は奥平家歴史資料館として、徳川家康拝領の白鳥鞘の鑓や歴代当主の甲冑や古文書など数多くの奥平家所蔵の品々を展示。令和7年(2025)には、庭園デザイナー・石原和幸設計による“日本唯一の花城”としてリニューアル。アートフラワーが見事な天守閣内部をはじめ、庭園には一年中さまざまな花が咲き誇る。
鋸山山麓から入り、全長90mの乱雑な石段を登ると、絶壁に巨大な不動明王と大日如来の磨崖仏が鎮座する。どちらも7~8m級の半身像で、造立は藤原末期と推定。石仏としては国内最大級・最古のものだ。国の史跡と重要文化財に指定されている。
仏の里・国東路の玄関口として往時の面影が残る坂道の城下町。江戸時代には、譜代大名松平氏の城下町として栄えた町でもあり、町並みは武家屋敷など歴史的景観を色濃く残している。坂道が多く残る3本のメインストリートをそれぞれゆっくりと散策してみたい。杵築市北台・南台は、坂が特徴的な武家町として、重要伝統的建造物群保存地区に選定。
屋山[ややま]の北側、天念寺[てんねんじ]の前を流れる長岩屋川[ながいわやがわ]の中ほどにある大岩に刻まれた磨崖仏。全高が3mを越す不動明王立像を中心に、左右にコンガラ童子とセイタカ童子の不動三尊が並ぶ。作風から室町時代の作とされ、水害除けの祈りが込められている。
大分県杵築市の北台武家屋敷跡に残る屋敷の一つ。江戸時代後期に藩の御用屋敷(休息所)として使われ、のちに家老・加藤与五右衛門の屋敷だったところ。
仁聞菩薩により開基され、六郷満山の中山本寺として栄えた名寺の跡。山門跡に残る一対の仁王像や1000基を超える五輪塔群が、時の流れを伝える。新緑や紅葉シーズンには、写真スポットとして人気がある。
富来港の開運橋そばにある公園。小さな公園ながら、鳥居をくぐると親子のマネーき猫の像がある。マネーき猫が持つ小判の穴に石を入れると、運勢が占える。
明和8年(1771)に建築された九州最古の木造住宅。江戸時代に組頭を務めた旧家の屋敷で、この地方の民家に多くみられた折れ曲がった棟と深くおろした茅葺き屋根の「曲がり寄棟造」が特徴だ。国の重要文化財に指定されている。
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