小浜城址
慶長6年(1601)、京極高次[きょうごくたかつぐ]が築城に着手し、小浜藩祖・酒井忠勝[さかいただかつ]が寛永13年(1636)に完成させた小浜城。以後は小浜藩の居城となったが、明治4年(1871)の出火のため、現在は本丸や天守閣の石塁だけが残る。本丸跡には小浜神社が立つ。
- 「小浜駅」から徒歩23分
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慶長6年(1601)、京極高次[きょうごくたかつぐ]が築城に着手し、小浜藩祖・酒井忠勝[さかいただかつ]が寛永13年(1636)に完成させた小浜城。以後は小浜藩の居城となったが、明治4年(1871)の出火のため、現在は本丸や天守閣の石塁だけが残る。本丸跡には小浜神社が立つ。
江戸中期に建てられたこの門は、朝倉館跡の入口に位置している。義景の菩提を弔うために建立されたと伝えられる松雲院の寺門で、外側には朝倉家の家紋が刻まれている。
5代義景の側室・小少将[こしょうしょう]の館跡で、巨石を配した豪壮な庭園は遺跡の中でもっとも規模が大きい。室町時代に作られ、後世の改変を受けていない庭園(特別名勝)。
天正4年(1576)、柴田勝家の甥である勝豊が築城。天守は2層3階建てで、上層に望楼があり、屋根は石瓦葺き。北陸地方で唯一の現存天守で、国の重要文化財に指定されている。天守の東北側にある「一筆啓上…」の石碑は、日本一短い手紙として有名。徳川家康の功臣・本多作左衛門重次が、陣中から妻にあてて書き送ったものだ。周囲は霞ヶ城公園として整備され、春には桜が咲き誇る名所。
縄文時代の遺跡が数多く残る若狭町にある公園。広大な敷地の中に、縄文時代を体感できる若狭三方縄文博物館「DOKIDOKI館」を中心に、野外ステージで各種イベントが行われる縄文コロセウムや野鳥観察小屋などがある。縄文広場には縄文時代の竪穴住居や縄文の森、環状列石等を再現し、縄文文化にふれることができる。また、パーク内には福井県年縞博物館がある。
城下町大野のシンボル。織田信長の家臣・金森長近[かなもりながちか]が天正4年(1576)頃から築いた平山城で、安永4年(1775)の大火で本丸を焼失したが、寛政6年(1795)に再建。明治初年(1868)に取り壊された。野面積[のづらづみ]といわれる技法で造られた石垣だけは当時のまま残っている。現在の天守は昭和43年(1968)に再建されたもので、内部には歴代城主の遺品や古文書などを展示。最上階からは眼下に大野の町並み、遠くには白山連峰が眺められる。“天空の城”といわれるだけに、秋から春にかけて雲海が市街を包み込む早朝には朝霧の中に浮かび上がる情景は幻想的。
明治から昭和初期にかけて港を中心に国際的な都市として発展した敦賀。その当時の面影を今もとどめる建造物だ。明治38年(1905)に紐育[ニューヨーク]スタンダード石油会社によって建てられた。平成27年(2015)10月には、敦賀の明治後期から昭和初期のまちなみを再現して、史実とエンターテインメント性を両立させた「鉄道と港のジオラマ」と「敦賀ならではの魅力的なレストラン館」として生まれ変わった。
約270年間、17代にわたり、越前松平家の繁栄の舞台となった福井城。慶長11年(1606)、初代福井藩主で徳川家康の次男・結城[ゆうき]秀康[ひでやす]によって築城された。当時は高さ約37m、4層5重もの雄大な天守閣と三重の堀をもっていたといわれる。現在残る遺構は堀の一部と石垣のみ。天守台下には福井の地名の由来にもなったという説もある井戸跡「福の井」もある。藩主専用の出入口であったとされている山里口御門が復元され、当時の様子を窺い知ることができる。令和元年(2019)5月には、日本遺産に認定された。
江戸~大正時代、廻船問屋などの商家が並んでいた界隈で、材木商を営んでいた新保屋岸名惣助の住居を公開。表構えはかぐら建て、屋内に通り庭や裏手に土蔵を配した三国の商家特有の造りだ。2階は往時の商人がたしなんだ俳諧や三国ゆかりの文学資料を紹介。
眺望のよい杣山は、古くから北陸道の軍事拠点の城が築かれた場所。南北朝時代には南朝軍の拠点となり、新田義貞はこの城にたてこもり再起を図った。周辺は国の史跡に指定され、殿池や姫穴、犬戻り駒返しなどみどころが点在。頂上までの遊歩道をたどり、約1時間20分のハイキングが楽しめる。
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