杣山城址
眺望のよい杣山は、古くから北陸道の軍事拠点の城が築かれた場所。南北朝時代には南朝軍の拠点となり、新田義貞はこの城にたてこもり再起を図った。周辺は国の史跡に指定され、殿池や姫穴、犬戻り駒返しなどみどころが点在。頂上までの遊歩道をたどり、約1時間20分のハイキングが楽しめる。
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
眺望のよい杣山は、古くから北陸道の軍事拠点の城が築かれた場所。南北朝時代には南朝軍の拠点となり、新田義貞はこの城にたてこもり再起を図った。周辺は国の史跡に指定され、殿池や姫穴、犬戻り駒返しなどみどころが点在。頂上までの遊歩道をたどり、約1時間20分のハイキングが楽しめる。
朝倉館跡を見下ろす山腹にある。4つある特別名勝朝倉氏庭園の中で最古のものと推測され、巨大な山石をふんだんに使った荒々しい石組が残る。室町時代に作られ、後世の改変を受けていない庭園(特別名勝)。
明治から昭和初期にかけて港を中心に国際的な都市として発展した敦賀。その当時の面影を今もとどめる建造物だ。明治38年(1905)に紐育[ニューヨーク]スタンダード石油会社によって建てられた。平成27年(2015)10月には、敦賀の明治後期から昭和初期のまちなみを再現して、史実とエンターテインメント性を両立させた「鉄道と港のジオラマ」と「敦賀ならではの魅力的なレストラン館」として生まれ変わった。
吉崎御坊は文明3年(1471)、蓮如上人が浄土真宗の根本道場として創建、隆盛を極めた。御山とよばれる千歳山山上には約3万3000平方mの平坦地が広がり、本堂の礎石や上人腰掛石などが残っている。国指定の史跡で、高さが5mある高村光雲作の蓮如上人銅像も立つ。
城下町大野のシンボル。織田信長の家臣・金森長近[かなもりながちか]が天正4年(1576)頃から築いた平山城で、安永4年(1775)の大火で本丸を焼失したが、寛政6年(1795)に再建。明治初年(1868)に取り壊された。野面積[のづらづみ]といわれる技法で造られた石垣だけは当時のまま残っている。現在の天守は昭和43年(1968)に再建されたもので、内部には歴代城主の遺品や古文書などを展示。最上階からは眼下に大野の町並み、遠くには白山連峰が眺められる。“天空の城”といわれるだけに、秋から春にかけて雲海が市街を包み込む早朝には朝霧の中に浮かび上がる情景は幻想的。
半島の先端にある。日本人がはじめて設計から建設まで手がけた洋風灯台第1号で、今も現役で船を導いている。
人魚の肉を食べて永遠の命を手に入れたという八百比丘尼の伝説が残る小浜。その伝説にちなみ、長寿の祈りが込められた二体の人魚像が小浜湾のテラスに立つ。美しい夕日が見られるスポットとしても知られている。
5代朝倉義景が住んだ館跡。6400平方mにも及ぶ敷地には一面に礎石が広がり、16棟の建物があったことがわかる。入口の唐門は、義景の菩提を弔うため、慶長3年(1598)に建立された松雲院の寺門。現在の門は江戸中期に建てられたもの。
森田銀行は北前船主だった森田家が明治の中期に創業し、大正9年(1920)にこの社屋を竣工。県内に現存する鉄筋コンクリート造りとしては最古とされ、登録有形文化財に指定されている。内部には漆喰装飾や象嵌細工が施され、当時の職人技を見ることができる。
南北朝時代は気比氏の城、新田軍と足利軍が戦った所。戦国時代は朝倉氏の支城。織田信長がここを攻めていた際に、浅井長政の裏切りを妻のお市が信長に知らせたという伝説が残る。この城跡内に後醍醐天皇の皇子を祭る金崎宮が創建されている。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。