松下村塾
松陰神社境内にあり、吉田松陰の叔父、玉木文之進[たまきぶんのしん]が開いた私塾。もともとは松陰の実家の物置だった建物で、和室2間に土間が付いただけの簡素なもの。松陰が指導にあたったのは、謹慎していた幽囚室から通算2年余りだが久坂玄端[くさかげんずい]、高杉晋作、伊藤博文など、明治維新の原動力となった逸材を多く輩出した。
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松陰神社境内にあり、吉田松陰の叔父、玉木文之進[たまきぶんのしん]が開いた私塾。もともとは松陰の実家の物置だった建物で、和室2間に土間が付いただけの簡素なもの。松陰が指導にあたったのは、謹慎していた幽囚室から通算2年余りだが久坂玄端[くさかげんずい]、高杉晋作、伊藤博文など、明治維新の原動力となった逸材を多く輩出した。
松下村塾の東隣に立つ、松陰の実家・杉家の一室。安政元年(1854)、密航に失敗した松陰は、野山獄に投獄され、翌年ここに移されて謹慎の身となった。
吉田松陰の父・杉百合之助の末弟・玉木文之進の家。松下村塾は文之進が天保13年(1842)に近くの師弟を集め、ここで学問を教えたのが始まりで、邸内には松下村塾発祥の地碑が立つ。
指月公園内にあり、もと三の丸にあった13代藩主毛利敬親の別邸・花江御殿の茶室「自在庵」を移したもの。入母屋造、茅葺きの風雅な建物で、敬親は維新の志士たちとここで密議を交わしたといわれている。
幕末の当時、日本屈指の蘭学医であった青木周弼は、13代藩主・毛利敬親[もうりたかちか]に召し出され、敬親の侍医を務めた人物。周弼宅には、全国から教えを乞う門下生が続々と集まったため、安政6年(1859)にこの家が新築された。
現山陽小野田市の厚狭[あさ]に領地を持っていた厚狭毛利氏の屋敷の一部で、安政3年(1856)に建てられた入母屋造本瓦葺きの長屋。梁間5m、桁行51.5mの長大な建物は、萩に現存する武家屋敷の中でも最大の規模を誇り、当時の姿をよく伝える遺構として重要文化財に指定されている。室内は座敷や中間部屋が横一直線上にいくつも連なり壮観。内部には、毛利家の姫が使った駕籠や道具類などを展示している。
萩藩の大組士佐世彦七の長男として天保5年(1834)に生まれ、24歳の時に松下村塾へ入門した前原一誠の旧宅。尊皇攘夷運動に参加した前原は後に萩の乱を起こしたが、鎮圧され悲運の最期を遂げた。旧宅は当時のままで、現在も住居として使われているので見学は外観のみ。墓は近くの弘法寺にある。
桂太郎は萩出身で、明治政府で陸軍大臣や首相を3回務めた政治家。旧宅は明治42年(1909)、彼が幼少時代を過ごした地に建てられた家だ。和室4室に台所が付いただけの簡素な家で、邸内には藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園がある。
江戸屋横町にある、木戸孝允(桂小五郎)の生家。当時としては珍しい木造2階建て桟瓦葺きで、14室もの部屋があり、父が藩医を務めていたために患者用と来客用の2つの玄関がある。孝允は天保4年(1833)に誕生し、約20年間をここで過ごした。誕生の間や勉強部屋などがあり、勉強部屋では後年、名筆家として知られた孝允の少年時代の習字も見られる。国指定史跡。江戸屋横町のある旧町人地は、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ「萩城下町」の一部となっている。
その傑出した行動力から「幕末のカリスマ」と称される高杉晋作は、萩藩大組士・高杉小忠太の長男としてここで生まれた。当時の旧宅の一部が現存し、屋敷の前には晋作が浸かったという産湯の井戸もある。晋作自作の歌を刻んだ句碑や自筆の書の複写、当時の茶道具などのゆかりの品を展示している。
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