奥平家長屋門
萩藩士として大組(300石)に属していた奥平家の表門は、市の指定有形文化財になっている。建築技法などから19世紀初頭のものとされ、全体の門構えや出格子など往時の形態をよく残している。西に面した表門は寄棟造、桟瓦葺きで、桁行約28m、梁間5mの長い建物。道路に面した西側には4カ所の出格子窓があり、腰部は下見板張り、上部は外大壁。外観のみ見学可。
- 「東萩駅」から徒歩14分
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萩藩士として大組(300石)に属していた奥平家の表門は、市の指定有形文化財になっている。建築技法などから19世紀初頭のものとされ、全体の門構えや出格子など往時の形態をよく残している。西に面した表門は寄棟造、桟瓦葺きで、桁行約28m、梁間5mの長い建物。道路に面した西側には4カ所の出格子窓があり、腰部は下見板張り、上部は外大壁。外観のみ見学可。
松下村塾の東隣に立つ、松陰の実家・杉家の一室。安政元年(1854)、密航に失敗した松陰は、野山獄に投獄され、翌年ここに移されて謹慎の身となった。
指月公園内にあり、菊ヶ浜に面した二の丸跡に復元された全長57mの土塀。海からの攻撃に対抗すべく、四角形の銃眼が開けられている。「蓬生ふ銃眼の中海光る」と横光利一が詠んだ銃眼からは、きらめく海と笠山が見える。
その傑出した行動力から「幕末のカリスマ」と称される高杉晋作は、萩藩大組士・高杉小忠太の長男としてここで生まれた。当時の旧宅の一部が現存し、屋敷の前には晋作が浸かったという産湯の井戸もある。晋作自作の歌を刻んだ句碑や自筆の書の複写、当時の茶道具などのゆかりの品を展示している。
永代家老に次ぐ寄組という役職にあった口羽家の屋敷で、旧三の丸の、橋本川と常盤島を望む一等地に立つ。毛利家江戸藩邸の門を移したと伝えられている表門(重要文化財)は桁行22.2m、梁間4.9mのなまこ壁が美しく、萩に現存するものとしては最も雄大な規模を有する長屋門。両脇部分には馬小屋や門番所などがある。主屋(重要文化財)は桟瓦葺き屋根の平屋で、座敷と奥座敷の間に武者隠しと見られる2畳の「相の間」[あいのま]が設けられているのが特徴だ。
江戸屋横町にある、木戸孝允(桂小五郎)の生家。当時としては珍しい木造2階建て桟瓦葺きで、14室もの部屋があり、父が藩医を務めていたために患者用と来客用の2つの玄関がある。孝允は天保4年(1833)に誕生し、約20年間をここで過ごした。誕生の間や勉強部屋などがあり、勉強部屋では後年、名筆家として知られた孝允の少年時代の習字も見られる。国指定史跡。江戸屋横町のある旧町人地は、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ「萩城下町」の一部となっている。
藍場川沿いにある藩政時代の武家屋敷。庭園の池に引き込んだ川の水を、さらに台所と風呂場の「ハトバ」(階段を設けて水に近づけるようにした場所)に流し入れて洗いものや入浴に利用するなど、典型的な藍場川沿いの家の水の利用法が見られる。
桂太郎は萩出身で、明治政府で陸軍大臣や首相を3回務めた政治家。旧宅は明治42年(1909)、彼が幼少時代を過ごした地に建てられた家だ。和室4室に台所が付いただけの簡素な家で、邸内には藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園がある。
萩藩の大組士佐世彦七の長男として天保5年(1834)に生まれ、24歳の時に松下村塾へ入門した前原一誠の旧宅。尊皇攘夷運動に参加した前原は後に萩の乱を起こしたが、鎮圧され悲運の最期を遂げた。旧宅は当時のままで、現在も住居として使われているので見学は外観のみ。墓は近くの弘法寺にある。
菊ヶ浜の東にある高さ3m、幅12m、長さ50mほどの土塁。文久3年(1863)5月の攘夷決定の日、長州藩は下関の馬関[ばかん]砲台から外国船を砲撃したが、大反撃を受けて敗退。地元への報復を恐れた藩は、菊ヶ浜に土塁を築いた。現在残るのはその一部。築塁には留守を守っていた多くの女性が参加したため「女台場」とよばれている。
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