
善福寺
指月山善福寺は永享年間(1429~1440)に指月山麓に創建された臨済宗の寺院で、毛利輝元の萩城築城のため、この地に移された。大内義隆が当寺に与えた文書を所蔵しているが、萩の地名が記されており、これは萩の地名が書かれた最古の文書と言われている。また、境内には胴にマリア像が彫られたキリシタン燈籠がある。
- 「萩駅」から徒歩17分
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指月山善福寺は永享年間(1429~1440)に指月山麓に創建された臨済宗の寺院で、毛利輝元の萩城築城のため、この地に移された。大内義隆が当寺に与えた文書を所蔵しているが、萩の地名が記されており、これは萩の地名が書かれた最古の文書と言われている。また、境内には胴にマリア像が彫られたキリシタン燈籠がある。
明神池畔に立つ神社で、漁業の守り神として信仰が厚い古社。貞享3年(1686)に安芸の厳島明神を勧請した古社で、航海安全と豊漁の神として信仰が厚い。明神池の魚は、大漁祈願の漁師がここに奉納した魚が繁殖したものだ。境内奥には風穴がぽっかりと口を開け、流れ出す風は夏もひんやりと涼しい。
元禄4年(1691)、3代藩主・毛利吉就が創建した黄檗宗の寺。毛利家菩提寺のひとつで大照院に偶数代の藩主が葬られているのに対し、ここには3~11代までの奇数代藩主とその夫人が葬られている。墓前には藩士が寄進した500余基の石灯籠が老杉・檜に囲まれて立つ。境内には中国風建物が並び、元禄6年(1693)ころ建築と伝わるベンガラ塗の総門や純唐様の三門、4代藩主・吉広が寄進した梵鐘がかかる鐘楼、本殿である大雄宝殿など重要文化財指定の建物が多数。伽藍配置は中国の明時代末期~清時代の様式で、龍の形を表したものと伝えられている。
萩城の築城前に毛利輝元が宿舎にした寺。現在ある表門(重要文化財)は輝元が豊臣秀吉から拝領し、寛永10年(1633)に移築したもの。もともとは京都の聚楽第[じゅらくだい]の裏門として建てられた本瓦葺きの屋根をもつ四脚門で、特に蟇股に豪放な桃山時代の特色が見られる。
明治40年(1907)に創建された、吉田松陰を祀る神社。松陰の実家杉家に土蔵造りの小祠が建てられたのが始まりで、現在の社殿は昭和30年(1955)に完成した。学問の神として親しまれ、本殿の北隣には門下生を祀る松門神社が建つ。境内には松陰が主宰し、幕末維新に活躍した志士を数多く輩出した松下村塾や吉田松陰幽囚ノ旧宅(杉家旧宅)などの史跡が点在。また歴史館(500円)と至誠館(500円)では松陰の生涯や遺志を現代に伝えている。松下村塾、吉田松陰幽囚ノ旧宅は、平成27年(2015)7月に世界遺産に登録。
常念寺界隈から熊谷美術館あたりにある寺町。このように寺院が密集する寺町も城下の守りのひとつだ。寺院は戦闘の際、兵舎に代わるものとして考えられ、張りめぐらされた土塀や、堅固な建物は、単に寺の威信だけではなく、いざという場合のことも考慮して造られている。城下町の守りの堅さを偲ばせる。
もとは大内氏の祈願寺として山口にあったが、毛利氏とともに萩に移った古寺。山口市には現在も円政寺町という地名が残る。境内には十二支の彫刻が施された金毘羅社があり、神仏混合の名残が見られる。伊藤博文や高杉晋作などが遊び、学んだ場所でもあり、幼い晋作が度胸をつけたという大天狗面や遊んだ木馬(神馬)などが残る。山口県下最大級の石灯籠、国内最大級の銅鏡も必見。石鳥居、金毘羅社社殿は萩市指定有形文化財である。
指月公園内にあり、毛利元就、輝元など歴代の藩主を祀る、明治12年(1879)創建の神社。社前の池にかかる石造りの万歳橋[ばんせいばし]は、かつての藩校明倫館の遺構だ。境内には維新にかかわる碑が多数立ち、萩市でしか見られない、緑色の蕚[がく]に純白色の花をつけるミドリヨシノという桜が植えられている。
萩駅の西にある毛利家の菩提寺。萩藩初代藩主毛利秀就[もうりひでなり]と、2~12代の偶数代藩主を祀る。藩主夫妻の墓前には、重臣らが献上した603基の石灯籠が整然と並び、荘厳な雰囲気。書院には鎌倉末期に作られた檜の寄木造、玉眼に水晶入りの赤童子[あかどうじ]立像(重要文化財)が安置され、庭園から拝観できる。5月上旬には藤が開花し、彩りを添える。
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