青木周弼旧宅
幕末の当時、日本屈指の蘭学医であった青木周弼は、13代藩主・毛利敬親[もうりたかちか]に召し出され、敬親の侍医を務めた人物。周弼宅には、全国から教えを乞う門下生が続々と集まったため、安政6年(1859)にこの家が新築された。
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幕末の当時、日本屈指の蘭学医であった青木周弼は、13代藩主・毛利敬親[もうりたかちか]に召し出され、敬親の侍医を務めた人物。周弼宅には、全国から教えを乞う門下生が続々と集まったため、安政6年(1859)にこの家が新築された。
現山陽小野田市の厚狭[あさ]に領地を持っていた厚狭毛利氏の屋敷の一部で、安政3年(1856)に建てられた入母屋造本瓦葺きの長屋。梁間5m、桁行51.5mの長大な建物は、萩に現存する武家屋敷の中でも最大の規模を誇り、当時の姿をよく伝える遺構として重要文化財に指定されている。室内は座敷や中間部屋が横一直線上にいくつも連なり壮観。内部には、毛利家の姫が使った駕籠や道具類などを展示している。
永代家老に次ぐ寄組という役職にあった口羽家の屋敷で、旧三の丸の、橋本川と常盤島を望む一等地に立つ。毛利家江戸藩邸の門を移したと伝えられている表門(重要文化財)は桁行22.2m、梁間4.9mのなまこ壁が美しく、萩に現存するものとしては最も雄大な規模を有する長屋門。両脇部分には馬小屋や門番所などがある。主屋(重要文化財)は桟瓦葺き屋根の平屋で、座敷と奥座敷の間に武者隠しと見られる2畳の「相の間」[あいのま]が設けられているのが特徴だ。
指月公園内にあり、もと三の丸にあった13代藩主毛利敬親の別邸・花江御殿の茶室「自在庵」を移したもの。入母屋造、茅葺きの風雅な建物で、敬親は維新の志士たちとここで密議を交わしたといわれている。
玉木文之進旧宅前の坂を上った、萩市街を眼下に見下ろす高台。家はすでにないが、跡地横に松陰と弟子の金子重輔が下田沖の黒船を眺めている銅像が立つ。近くに、松陰とその一族、高杉晋作、久坂玄瑞らの墓がある。
松下村塾の東隣に立つ、松陰の実家・杉家の一室。安政元年(1854)、密航に失敗した松陰は、野山獄に投獄され、翌年ここに移されて謹慎の身となった。
旧周布家長屋門の並び、旧三の丸北の総門跡脇に立つ、萩藩の永代家老益田家屋敷の一部。高さ1.8mの石塁の上に立つ平屋建ての建物で、総門から入る人々を見張った。
江戸屋横町にある、木戸孝允(桂小五郎)の生家。当時としては珍しい木造2階建て桟瓦葺きで、14室もの部屋があり、父が藩医を務めていたために患者用と来客用の2つの玄関がある。孝允は天保4年(1833)に誕生し、約20年間をここで過ごした。誕生の間や勉強部屋などがあり、勉強部屋では後年、名筆家として知られた孝允の少年時代の習字も見られる。国指定史跡。江戸屋横町のある旧町人地は、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ「萩城下町」の一部となっている。
萩藩の大組士佐世彦七の長男として天保5年(1834)に生まれ、24歳の時に松下村塾へ入門した前原一誠の旧宅。尊皇攘夷運動に参加した前原は後に萩の乱を起こしたが、鎮圧され悲運の最期を遂げた。旧宅は当時のままで、現在も住居として使われているので見学は外観のみ。墓は近くの弘法寺にある。
江戸時代の牢獄跡で、野山獄が士分の者、岩倉獄が庶民用だった。安政元年(1854)、下田からアメリカに密航を企てて失敗した吉田松陰は野山獄に、門弟の金子重輔[かねこしげのすけ]は岩倉獄につながれた。岩倉獄跡には、重輔絶命の碑と松陰が重輔に贈った詩碑が立つ。
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