
穴師坐兵主神社
大神神社、大和神社、石上神宮と並ぶ大社。創建は約2000年前(崇神天皇60年)といわれ、延喜の制で名神大社に列せられた。祈年・月次・相嘗・新嘗等の宮幣に預かる。もと弓月ケ岳[ゆづきがたけ]の山頂にあった上社を麓までおろして下社としたのが、現在の神社といわれる。一の鳥居近くには相撲[すもう]神社がある。『日本書紀』によると、垂仁天皇の前で当麻蹶速[たいまのけはや]と出雲の野見宿禰[のみのすくね]が生死をかけた力比べをした場所といわれ、相撲発祥の地とされる。
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大神神社、大和神社、石上神宮と並ぶ大社。創建は約2000年前(崇神天皇60年)といわれ、延喜の制で名神大社に列せられた。祈年・月次・相嘗・新嘗等の宮幣に預かる。もと弓月ケ岳[ゆづきがたけ]の山頂にあった上社を麓までおろして下社としたのが、現在の神社といわれる。一の鳥居近くには相撲[すもう]神社がある。『日本書紀』によると、垂仁天皇の前で当麻蹶速[たいまのけはや]と出雲の野見宿禰[のみのすくね]が生死をかけた力比べをした場所といわれ、相撲発祥の地とされる。
JR巻向駅周辺に広がる、弥生時代末期~古墳時代前期の遺跡。範囲は東西2.5km、南北1.5kmに及び、この時代の遺跡としては全国でも飛び抜けた規模だ。全国各地の土器が出土し、全国から人や物が集まっていたことを物語る。ここが邪馬台国だったとみる研究者は多い。遺跡内には発生期の古墳が集中する纒向古墳群があり、ホケノ山古墳は3世紀中ごろに築造された最古の前方後円墳といわれる。
大化元年(645)創建。本尊の文殊菩薩は鎌倉時代の大仏師・快慶作の国宝で日本最大(7m)。平安時代から魔除け・災難除けの守り神として尊崇されている陰陽師・安倍晴明公ゆかりの寺であり、全国から参拝者が絶たない。境内文殊池中央に浮かぶ金閣浮御堂霊宝館は、魔除け・災難除けの願掛け道場となっており、この御堂の回廊を自分自身が7回廻って、厄・災難を払う「災難除け七参り」を申し込むと「おさめ札と肌守り」が授与され堂内の宝物拝観ができる。
桜井市内の発掘調査で出土した土器や木製品などの保管・展示が行われている。常設展では発掘調査で出土した遺物を中心に、旧石器時代から飛鳥・奈良時代までの桜井市地域の歴史を紹介。また、特別展や企画展も開催されている。
状況が『日本書紀』などの記述と合致することから、被葬者がほぼ確実視されている八角形墳。
野見宿禰を祭神とする、穴師坐兵主神社の摂社。相撲発祥の地。『日本書紀』によれば、大和国の當麻蹶速と出雲国の野見宿禰が日本で始めての相撲をとり、勝った野見宿禰には當麻蹶速の領地が与えられた。
檜原神社から山辺の道を南へ5分ほど行った地に、ひっそり立つ。奈良~平安時代初期の僧玄賓[げんぴん]が隠棲した所と伝え、もと三輪山の檜原谷にあったが、明治の神仏分離で現在地に移された。小堂に藤原時代作の木造不動明王像(重要文化財)や玄賓像を祭り、謡曲『三輪』の舞台でも知られる。
長谷寺塔頭で、西国三十三カ所観音霊場番外札所。長谷寺本尊の十一面観音を造立し、西国霊場巡礼を始めたとされる徳道[とくどう]上人が隠棲した所と伝わる。徳道上人像を安置し、境内には上人御廟の十三重石塔や、触れると願いがかなうという上人沓脱ぎ石がある。
山の辺の道から山門をくぐると聖徳太子像が迎える。開基開山を聖徳太子と伝える由緒ある名刹。慶長5年(1600)には関ヶ原の合戦で敗れた島津義弘公をかくまう。明治の廃仏毀釈により整理を迫られたが托鉢によって再興。
山の辺の道沿い、金屋の石仏の向かいにある美術館。ルノアールやピカソ、ユトリロのほか、国内では梅原龍三郎、佐伯祐三、須田国太郎ら近代画家の作品約300点を収蔵、順次公開している。ボイスやデュシャンら現代美術の巨匠の作品も充実。所要40分。
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