
飛鳥寺
蘇我馬子の発願で推古4年(596)に完成した、日本初の本格的寺院。塔を3金堂が囲む大寺だったが、鎌倉時代に伽藍の大半を焼失した。現在の本堂は江戸時代の再建だが、本尊銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は創建時の飛鳥時代の作。飛鳥大仏の名で親しまれる。
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蘇我馬子の発願で推古4年(596)に完成した、日本初の本格的寺院。塔を3金堂が囲む大寺だったが、鎌倉時代に伽藍の大半を焼失した。現在の本堂は江戸時代の再建だが、本尊銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は創建時の飛鳥時代の作。飛鳥大仏の名で親しまれる。
高松塚古墳の南一帯は古代、檜隈[ひのくま]と呼ばれ、朝鮮半島などから渡ってきた渡来人が多数住んでいた地。大和棟の民家が美しい景観をつくる現在の檜前集落の南のはずれに、渡来系氏族東漢[やまとのあや]氏の氏寺だった、この寺跡がある。於美阿志[おみあし]神社境内に金堂や講堂の基壇や礎石が残り、塔跡には平安時代の十三重石塔(重要文化財)が立つ。
飛鳥宮跡は飛鳥時代の宮殿跡と考えられており、発掘調査で明らかになった石敷き広場や石組みの井戸などが復原されている。この遺構は天武持統両天皇の飛鳥浄御原宮[きよみはらのみや]と考えられている。さらにその下層から別の宮殿跡が見つかっており、古くからの伝承により、中大兄[なかのおおえの]皇子と中臣鎌足[なかとみのかまたり]が蘇我入鹿を斬殺した乙巳の変の舞台となった飛鳥板蓋宮[いたぶきのみや]の可能性がある。
「飛鳥」の歴史と文化を紹介する資料館。飛鳥の文化財を調査・研究する奈良文化財研究所の展示施設として、飛鳥寺跡や川原寺跡からみつかった華麗な装飾品や、時を告げる水時計(漏刻)、須弥山石などの石造物、高松塚古墳の出土品、倒れた姿のまま発見された山田寺の東回廊の建築など、飛鳥時代の歴史と文化を、わかりやすく展示している。所要1時間。
飛鳥寺の南東、丘陵上にある長さ5.4m、最大幅2.3mの扁平な巨石。花崗岩を加工したもので、表面には円や楕円と、それらを結ぶ細い溝が彫り込まれている。酒や油を絞るための道具や庭園施設など、さまざまな説があるが、今も定かではない。国の史跡に指定されており、平成の発掘調査では、周辺で階段状の石垣や砂岩でできた湧水設備、小判形や亀形の石造物なども発見されている。
飛鳥をこよなく愛した万葉学者、犬養孝の業績を顕彰する記念館。直筆原稿や著書などを展示。映像では、万葉集を独特の抑揚で朗唱する犬養節が聞ける。図書室には犬養の蔵書など約8000冊が収蔵されている(貸出可)。喫茶、軽食ができるカフェを併設。旅行者や、村民の憩いの場所となっている。所要30分。
飛鳥時代の石造物。左右に二つの顔があり人の心の善悪二相を表したものと伝えられている。橘境内には重要文化財7点所有。本尊聖徳太子35歳坐像は国指定重要文化財。
全長約140mで、明日香村内最大級の前方後円墳。墳丘の緑と、濠が美しい。570年に死去した欽明天皇と、妃で蘇我馬子の妹の堅塩媛[きたしひめ]を合葬した檜隈坂合陵[ひのくまさかあいのみささぎ]とされている。しかし、出土遺物が築造年代とあわず、北方の丸山古墳を欽明陵とみる説がある。
道を挟んで、鬼の俎[まないた]の向かい側にある大きな石造物。その昔、旅人を捕らえては食っていた鬼が用を足した場所との伝説が残る。実際は、7世紀中頃に造られた古墳の石槨[せっかく]で上部が底石からはがれたものといわれる。
石舞台古墳から飛鳥川を上流に向かうと両集落が続いている。飛鳥でもひときわのどかな里で、稲渕地区の丘陵東斜面には見事な棚田が広がる。日本の棚田百選にも選ばれた場所だ。9月には付近の道にかかしコンテストの応募作が立ち並び、かかしロードとなる。それぞれの集落の入り口、飛鳥川に掛かる勧請縄も風情がある。稲渕が男綱、栢森が女綱で、子孫繁栄、悪疫退散を祈願。毎年1月に掛け直される。
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