
門倉岬
種子島の最南端に断崖状に突き出した岬。天文12年(1543)、この岬に1隻の異国船が漂着。この船に乗っていたポルトガル人が鉄砲を所持していたことから、日本に鉄砲が伝わることになる。岬周辺は公園として整備され、鉄砲伝来紀功碑と種子島最南端の地の碑に加え、南蛮船を模した造りの展望台も設けられている。なお、岬に至る直線道路の愛称は「海中ロード」。まるで海に向かって直進していくかのような気分になることからの命名といわれる。
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種子島の最南端に断崖状に突き出した岬。天文12年(1543)、この岬に1隻の異国船が漂着。この船に乗っていたポルトガル人が鉄砲を所持していたことから、日本に鉄砲が伝わることになる。岬周辺は公園として整備され、鉄砲伝来紀功碑と種子島最南端の地の碑に加え、南蛮船を模した造りの展望台も設けられている。なお、岬に至る直線道路の愛称は「海中ロード」。まるで海に向かって直進していくかのような気分になることからの命名といわれる。
種子島を代表する民家建築。島主の種子島氏に仕え、庄屋などを務めた古市源助が弘化3年(1846)に建てたもので、建造当時の原形をほぼとどめていることから、国の重要文化財に指定されている。また、歴史の里坂井公園を中心に、歴史散策コースとなっている。
画家・田中一村は明治41年(1908)栃木県生まれ。南国・奄美の自然に魅いられて昭和33年(1958)、齢50にして奄美に移住。亜熱帯独特の動・植物を描き続けたが、その独特の世界は生涯認められなかった。清貧・孤高の生活を続け、69歳でこの家に移った10日後に死去。作品は「田中一村記念美術館」で見られる。
小説『死の棘』などで知られる島尾敏雄を讃える碑。終戦の直前、この碑が立つ呑之浦地区には震洋隊の特攻隊の基地があり、その隊長として任に当たっていたのが若き日の島尾敏雄。のちに彼は、発進間際で終戦を迎えたこのときの極限状況の体験を『出発は遂に訪れず』などの作品に著している。文学碑の周囲には遊歩道が整備されている。
西郷隆盛(号は南洲)が幕府からの追及を逃れるため奄美に身を隠したのは安政6年(1859)。この時潜居(潜み住むこと)した地に、西郷が設計した木造家屋が復元され、自筆の書、枕などとともに公開されている。ここで暮らした3年の間に、西郷は愛加那[あいかな]という娘と結ばれ、2人の子をもうけたが、召還命令が下ると、妻子を残して島を離れざるを得なかった。
徳之島町の第46代横綱朝潮太郎記念像は、同町出身の力士・朝潮太郎を記念。昭和34~37年(1959~1962)まで大相撲の横綱を務め、初代若乃花と人気を2分した力士で、引退後は朝潮、小錦の両大関を育てたことで知られている。通算優勝5回、殊勲賞4回の成績を残した。
奄美大島の伝統的な穀物貯蔵庫「高倉」。火災から守り、作業の利便性も考えられて集落の外れに集めて建てられていて、大和浜にのみ5棟が残っている。水やシロアリに強い木材イジュを、釘を使わず組み込んで建てられ、通気性がよく、ネズミが上れない構造になっている。貯蔵庫部分は茅葺き屋根の内側、つまり屋根裏部屋。この群倉は築100年を超えるといわれ、鹿児島県の有形文化財に指定されている。
俊寛は平安後期の僧。治承元年(1177)の鹿ケ谷の陰謀が失敗し、「鬼界ケ島」に流されたという。これは喜界島のことではないかと思われ、ここで発見された墓は島では俊寛の墓とされている。
喜界島の集落には、サンゴの石垣がよく見られる。台風や潮から家々を守るために築かれた、先祖の知恵の産物だ。島の南東部にある阿伝集落は、特によく石垣を残している。サンゴの石垣は毒蛇ハブの棲み家となりやすい欠点があるが、喜界島にはハブがいないため保存状態がいい。
サンゴ礁で造られた琉球様式の墓。沖永良部島が与論島とともに琉球の北山王朝の支配下にあった15世紀頃の史跡だ。最奥部に、島主(世之主)として島を治めていた北山王の次男・真松千代[まちぢよ]とその家族の霊が眠っている。北山王と敵対関係にあった中山[ちゅうざん]王が沖永良部島に遣わした和睦船を、真松千代は来襲と思い、妻子を道連れに自害してしまったという話が残っている。
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