桜島
錦江湾(鹿児島湾)の中央に浮かぶ、今も噴火を繰り返す活火山。日本ジオパークに認定されている「桜島・錦江湾ジオパーク」のシンボルとなっている。鹿児島港からフェリーで約15分(運賃250円、小人130円、日中は15~20分間隔で運航)。大正3年(1914)の噴火で大隅半島と陸続きとなった。島内には大規模噴火を物語る痕跡が点在し、中でも黒神埋没鳥居はその上部だけを残し、軽石に埋もれ、大正噴火の教訓を今に伝えている(黒神埋没鳥居まではフェリーターミナルから車で30分)。
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錦江湾(鹿児島湾)の中央に浮かぶ、今も噴火を繰り返す活火山。日本ジオパークに認定されている「桜島・錦江湾ジオパーク」のシンボルとなっている。鹿児島港からフェリーで約15分(運賃250円、小人130円、日中は15~20分間隔で運航)。大正3年(1914)の噴火で大隅半島と陸続きとなった。島内には大規模噴火を物語る痕跡が点在し、中でも黒神埋没鳥居はその上部だけを残し、軽石に埋もれ、大正噴火の教訓を今に伝えている(黒神埋没鳥居まではフェリーターミナルから車で30分)。
喜界島の集落には、サンゴの石垣がよく見られる。台風や潮から家々を守るために築かれた、先祖の知恵の産物だ。島の南東部にある阿伝集落は、特によく石垣を残している。サンゴの石垣は毒蛇ハブの棲み家となりやすい欠点があるが、喜界島にはハブがいないため保存状態がいい。
徳之島町の第46代横綱朝潮太郎記念像は、同町出身の力士・朝潮太郎を記念。昭和34~37年(1959~1962)まで大相撲の横綱を務め、初代若乃花と人気を2分した力士で、引退後は朝潮、小錦の両大関を育てたことで知られている。通算優勝5回、殊勲賞4回の成績を残した。
寛永元年(1624)、第17代種子島忠時が内城(旧榕城中学校跡地)からここに城を移し、19代久基が山鹿流の築城法に基づいて整備した城跡。明治2年(1869)の版籍奉還まで、種子島島主・種子島家の居城になっていた。現在は榕城小学校になっている。
約10600年前の大規模な定住集落跡である国指定史跡「上野原遺跡」を保存・活用するために造られた施設。日本の歴史公園100選のひとつにも認定されている。展示館では土器や石器等貴重な出土品が見学でき、体験学習館では火おこしやアクセサリー作りなどの縄文体験もできる。10600年前の竪穴住居跡などを発掘されたままの状態で保存している遺跡保存館は必見。
種子島には、さまざまな「漂着史」が残る。この碑は、島の南端、門倉岬から竹崎漁港まで続く前の浜海岸が舞台の「漂着」を記念している。明治27年(1894)4月24日の夜、香港へ向かう途中の英国帆船ドラメルタン号が暴風雨のために前之浜海岸に漂着。これを発見した集落の人々は4カ月かかった修理の間、船員たちを厚くもてなしたという。そのとき、お礼にもらった鶏を「インギー鶏」とよぶが、これは、当時イギリス人を「インギー」とよんでいたためとか。
奄美大島の伝統的な穀物貯蔵庫「高倉」。火災から守り、作業の利便性も考えられて集落の外れに集めて建てられていて、大和浜にのみ5棟が残っている。水やシロアリに強い木材イジュを、釘を使わず組み込んで建てられ、通気性がよく、ネズミが上れない構造になっている。貯蔵庫部分は茅葺き屋根の内側、つまり屋根裏部屋。この群倉は築100年を超えるといわれ、鹿児島県の有形文化財に指定されている。
西郷隆盛(号は南洲)が幕府からの追及を逃れるため奄美に身を隠したのは安政6年(1859)。この時潜居(潜み住むこと)した地に、西郷が設計した木造家屋が復元され、自筆の書、枕などとともに公開されている。ここで暮らした3年の間に、西郷は愛加那[あいかな]という娘と結ばれ、2人の子をもうけたが、召還命令が下ると、妻子を残して島を離れざるを得なかった。
明治36年(1903)に開業し、駅舎や長いすなどが110年以上たった今も現役。趣ある駅舎は観光スポットとしても人気。
二ツ家民家とは居住用である「オモテ」と台所・土間の「ナカエ」を小さな棟で繋いだ、分離式民家のこと。知覧のものは棟をつなぐ形状が独特のL字型であることから、知覧型二ツ家民家と呼ばれている。移築復元したものが庭園のほぼ中央にあり、売店にもなっている。昭和57年(1982)指定、市文化財(建造物)。
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