ドラメルタン号漂着記念碑
種子島には、さまざまな「漂着史」が残る。この碑は、島の南端、門倉岬から竹崎漁港まで続く前の浜海岸が舞台の「漂着」を記念している。明治27年(1894)4月24日の夜、香港へ向かう途中の英国帆船ドラメルタン号が暴風雨のために前之浜海岸に漂着。これを発見した集落の人々は4カ月かかった修理の間、船員たちを厚くもてなしたという。そのとき、お礼にもらった鶏を「インギー鶏」とよぶが、これは、当時イギリス人を「インギー」とよんでいたためとか。
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種子島には、さまざまな「漂着史」が残る。この碑は、島の南端、門倉岬から竹崎漁港まで続く前の浜海岸が舞台の「漂着」を記念している。明治27年(1894)4月24日の夜、香港へ向かう途中の英国帆船ドラメルタン号が暴風雨のために前之浜海岸に漂着。これを発見した集落の人々は4カ月かかった修理の間、船員たちを厚くもてなしたという。そのとき、お礼にもらった鶏を「インギー鶏」とよぶが、これは、当時イギリス人を「インギー」とよんでいたためとか。
画家・田中一村は明治41年(1908)栃木県生まれ。南国・奄美の自然に魅いられて昭和33年(1958)、齢50にして奄美に移住。亜熱帯独特の動・植物を描き続けたが、その独特の世界は生涯認められなかった。清貧・孤高の生活を続け、69歳でこの家に移った10日後に死去。作品は「田中一村記念美術館」で見られる。
サンゴ礁で造られた琉球様式の墓。沖永良部島が与論島とともに琉球の北山王朝の支配下にあった15世紀頃の史跡だ。最奥部に、島主(世之主)として島を治めていた北山王の次男・真松千代[まちぢよ]とその家族の霊が眠っている。北山王と敵対関係にあった中山[ちゅうざん]王が沖永良部島に遣わした和睦船を、真松千代は来襲と思い、妻子を道連れに自害してしまったという話が残っている。
肥後藩との国境の要地に、1600年前後に設けられた関所。江戸時代、独自の封建制度を確立していた薩摩藩は人の往来を厳重に取り締まったため、この関所の厳しさは全国にも知られていた。当時を偲ばせる古井戸も残っている。
国の重要伝統的建造物群保存地区。麓[ふもと]とは、江戸時代に防衛上の必要から薩摩藩の外城[とじょう]として造った武家屋敷兼陣地のこと。なかでも出水麓は肥後との国境にあり、最大規模を誇った。その他、石垣や武家門や蔵が復元された竹添邸や、税所邸が一般公開されている。歴史ある町並みを観光牛車に揺られて観光できる。観光牛車は土・日曜、祝日運行(雨天運休)。出水麓は、令和元年(2019)5月に認定された日本遺産の構成文化財の一つ。
天城町と徳之島町にまたがる地には、シドニーオリンピック金メダリスト・高橋尚子の練習コースに建てられた尚子ロード記念碑もある。碑には、現役時代の高橋尚子選手の姿や記録が刻まれている。
伊仙町の泉重千代翁之像は、慶応元年(1865)に伊仙町で生まれ、114歳を迎えた昭和54年(1979)にギネスブックで長寿世界一に認定された泉重千代さんを記念するもの。
トメさんが特攻隊員たちの供養と感謝の気持ち、後世の幸せを願い、拝み続けた観音像を奉った観音堂。富屋旅館本館にあり、現在は自由に参拝できるようになっている。
寛永元年(1624)、第17代種子島忠時が内城(旧榕城中学校跡地)からここに城を移し、19代久基が山鹿流の築城法に基づいて整備した城跡。明治2年(1869)の版籍奉還まで、種子島島主・種子島家の居城になっていた。現在は榕城小学校になっている。
奄美大島の伝統的な穀物貯蔵庫「高倉」。火災から守り、作業の利便性も考えられて集落の外れに集めて建てられていて、大和浜にのみ5棟が残っている。水やシロアリに強い木材イジュを、釘を使わず組み込んで建てられ、通気性がよく、ネズミが上れない構造になっている。貯蔵庫部分は茅葺き屋根の内側、つまり屋根裏部屋。この群倉は築100年を超えるといわれ、鹿児島県の有形文化財に指定されている。
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