
法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)
鎌倉幕府を開いた源頼朝を供養した堂の跡。現在頼朝の墓塔は安永8年(1779)、頼朝と縁深い薩摩の島津重豪が整備した。また、頼朝の墓から右手の細い山道を登ると、頼朝の参謀だった大江広元[おおえのひろもと]の墓などがある。
- 「鎌倉駅」から徒歩22分
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鎌倉幕府を開いた源頼朝を供養した堂の跡。現在頼朝の墓塔は安永8年(1779)、頼朝と縁深い薩摩の島津重豪が整備した。また、頼朝の墓から右手の細い山道を登ると、頼朝の参謀だった大江広元[おおえのひろもと]の墓などがある。
静かな住宅街の一角に、約20基の五輪塔が立ち並ぶ。頼朝の側近だった和田義盛[わだよしもり]一族が、建保元年(1213)に北条義時[ほうじょうよしとき]との戦いに敗れて葬られたところと伝わる。
扇ガ谷から源氏山にぬける、鎌倉七切通のひとつ。急な坂道は途中でS字に曲り、露出した岩肌とおおいかぶさるような樹木が往時の面影を伝えている。新田義貞の鎌倉攻めではこの付近が主戦場となったという。春は山桜、秋は紅葉が美しい。雨天後は滑りやすいので要注意。
鎌倉時代、遠浅で大きな船が入れなかった海岸に造られた和賀江嶋は、日本最古の築港遺跡。満潮時にはほぼ全域が海面下に隠れてしまうが、干潮時には石積みが見られる。国指定の史跡に指定されている。
仁治2年(1241)に3代執権北条泰時[やすとき]が自ら現場で指揮をとったと言われる。鎌倉と六浦[むつうら]の港を結ぶ要路で朝夷奈三郎義秀[あさいなさぶろうよしひで]という豪傑が一夜にしてこの切通しを作った、という伝説もある。このあたりは木漏れ日がようやく射し込むくらい木々が茂り、静寂そのものだ。朝夷奈切通へ進む分岐点をそのまま5分ほど直進すると十二所果樹園がある。梅やクリの木が植えられ、2月には梅見を楽しむ人々で賑わう。
西行法師が「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」と詠んだ鴫立沢のほとりにある、日本三大俳諧道場の一つ。句会等で利用できる貸部屋がある。
島の西端部の高台に建つ。明治3年(1870)、フランス人技師ヴェルニーによって設計された西洋式灯台で、日本で5番目の古い歴史をもつ。当初はレンガ造りだったが大正12年(1923)の関東大震災で倒壊。現在の高さ11.5m、白色円形コンクリート造りの灯台は大正14年(1925)に再建した2代目。一般開放日以外は灯台内に入れない。周辺施設は立入可。灯台下は荒磯が広がる。
稲村ケ崎から極楽寺へ通じる道沿いにある墓。鎌倉攻めの際、新田軍の大将・大館宗氏[おおだてむねうじ]は北条軍の猛反撃にあって敗退。最後まで残った10人の家臣も自刃したという。彼らの霊を弔う石碑が立つ。
浪子不動の背後にある、なだらかな披露山の山頂一帯に広がる公園。園内にはレストハウスや展望台、オス10頭、メス8頭の計18頭のサルがいる猿園、水鳥園、尾崎行雄の記念碑などがあり、展望台からは逗子や葉山方面はもちろん、遠く伊豆や富士山まで見渡せる。浪子不動までのハイキングコースもある。
鶴岡八幡宮の東、雪ノ下一帯が、治承4年(1180)に頼朝が居を構えて鎌倉幕府を開き、嘉禄元年(1225)に北条泰時が若宮大路の宇津宮辻子に幕府を移すまで45年間、武家政治の中心となったところ。清泉女学院小学校の西の角に立つ石碑を中心に敷地は200m四方におよぶ広大のもので、寝殿・公文所・問注所・侍所などの建物があったという。
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