南昌荘
盛岡出身の実業家・瀬川安五郎が明治18年(1885)頃に建てた邸宅・庭園。130年余りの間に所有者が変わるなかで、当時の姿のまま継承されている。名園は国の登録記念物・盛岡市の保護庭園に、邸宅は同市の保存建造物に指定。1100坪の敷地内に、風情あふれる池や茶室が配されている。また、作品展やイベントの会場としても活用され、抹茶420円やコーヒー420円も飲める。
- 「仙北町駅」から徒歩15分/「盛岡駅」から徒歩21分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
盛岡出身の実業家・瀬川安五郎が明治18年(1885)頃に建てた邸宅・庭園。130年余りの間に所有者が変わるなかで、当時の姿のまま継承されている。名園は国の登録記念物・盛岡市の保護庭園に、邸宅は同市の保存建造物に指定。1100坪の敷地内に、風情あふれる池や茶室が配されている。また、作品展やイベントの会場としても活用され、抹茶420円やコーヒー420円も飲める。
北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵上に位置する城跡公園。盛岡城は、盛岡藩初代藩主・南部信直が築城を開始し、寛永10年(1633)に完成。明治39年(1906)に近代公園として整備され、「岩手公園」として開園した。国指定史跡である盛岡城跡の本丸、二ノ丸、三ノ丸、淡路丸などの曲輪を配した城内には、数多くのあづまやや歌碑・石碑が配され、桜や梅、イロハモミジ、藤棚、アジサイなど、さまざまな植物が四季を彩る。なかでも、盛岡産の花崗岩を積み上げた壮大な石垣は圧巻で、「日本100名城」にも選定されている。
宮沢賢治が教鞭をとっていたころの花巻農学校の跡地にある公園。『風の又三郎』の一場面を題材にした黒御影石の彫刻が立ち、賢治が好きだったぎんどろの木が植えられている。車で来館の場合は花巻市文化会館駐車場(約400台収容)が利用できる。
中尊寺東方の高館は、藤原秀衡を頼って落ち延びた源義経の館があった場所。山頂の義経堂には、義経公の尊像が安置されている。芭蕉が「夏草や兵共が夢の跡」と詠んだ地でもあり、入口の階段を上った右側には芭蕉や曽良[そら]の句碑が立つ。眼下に衣川、北上川も眺望できる。春から初夏にかけてはツツジが美しい。
かつて宮沢賢治も訪れたという、大正10年(1921)に建築された緯度観測所旧本館(登録有形文化財)を、奥州宇宙遊学館として公開している。宇宙について学べる4次元デジタル宇宙シアターは、国立天文台で開発されたもの。最新技術で壮大な宇宙を体感できる。『風野又三郎』や『銀河鉄道の夜』など、作品誕生のきっかけとなった当時の天体観測の道具類や、賢治と緯度観測所の関係についての展示もある。
伊達政宗公が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟を、2代藩主忠宗公が江戸より移築したもの。歴代藩主が納涼・観月の場とした観瀾亭は「月見御殿」とも呼ばれており、秋には毎年お月見会を開催。室内の極彩色の障壁画は重要文化財に指定されている。
紳亀元年(724)に創建され、陸奥の国府、鎮守府が置かれた多賀城の中核部分。面積は約1.2haにもおよび、平城宮跡・大宰府跡と並んで日本の三大史跡の一つに数えられている。築地塀で囲まれた政庁の中央部には、正殿や脇殿など建物が立ち並び、重要な儀式や事務が行われていた。現在は建物の基壇や礎石など奈良時代後半頃の状況に平面整備が進んでいる。国の特別史跡に指定されているほか、日本遺産にも認定されている。
国府多賀城の南東約1kmに位置し、多賀城の付属寺院として建立されたといわれている。伽藍配置は太宰府(福岡県)の観世音寺に類似している。寺院の名称は不明だが、昭和58年(1983)に出土した土器の墨書きから、「観音寺」ではないかといわれている。
多賀城南門跡のすぐ近くに立つ。高さ約2m(地上部分)、最大幅103cmの奈良時代の石碑で、当時の主要な国界から多賀城までの距離、大野東人[おおののあずまひと]が多賀城を創建したことなどが刻まれている。群馬県多胡碑[たごひ]、栃木県那須国造碑[なすのくにのみやつこのひ]とともに、日本三古碑の一つに数えられる。国の重要文化財に指定されているほか、日本遺産にも認定されている。
紙問屋や雑貨商などを営んでいた豪商・渡辺家の屋敷。土蔵造の店蔵は明治中期、母屋と金庫蔵は大正12年(1923)に建てられたもので、和洋折衷の造りが特徴。なかでも、玄関欄間のベネチアンガラスや店蔵の棚階段は見もの。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。