
後藤新平旧宅
政治家として近代化に貢献した、後藤新平の家。生前に、「水沢には墓をつくらないから墓代わりにあの家を長く残しておけ」と言い残したという。江戸中期の下級武士の住居として貴重なもの。奥州市武家住宅資料館の近くにある。所要30分。
- 「水沢駅」から徒歩15分
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政治家として近代化に貢献した、後藤新平の家。生前に、「水沢には墓をつくらないから墓代わりにあの家を長く残しておけ」と言い残したという。江戸中期の下級武士の住居として貴重なもの。奥州市武家住宅資料館の近くにある。所要30分。
明治43年(1910)に竣工した旧第九十銀行の建物を保存活用。石川啄木と宮沢賢治が過ごした明治・大正時代の盛岡の街と、2人の歩みを紹介。重要文化財の建物も必見で、旧頭取室(映像体験室)や旧金庫室(光と音の体験室)など見どころ多数。1階には喫茶「あこがれ」やオリジナルグッズを販売するショップもある。
藤原秀衡[ひでひら]が京都・宇治の平等院鳳凰堂にならって建てたという寺院の跡。平等院よりも大きかったと言われるが、火災で消失してしまった。ここから中尊寺へ向う前に4~5分東へ道をそれると、奥州藤原氏時代の政庁であった平泉館跡といわれる柳之御所遺跡(史跡)[やなぎのごしょいせき]がある。
毛越寺境内に2代藤原基衡が造園した、日本最古の浄土庭園。州浜や築山、出島石組と池中立石が配された大泉ケ池を中心に、浄土を地上に表現したといわれる。平安時代の作庭様式を伝える貴重な遺構の遣水は、池に水を取り入れるための水路。玉石を底に敷きつめ、水の曲がり角や池への注ぎ口には石組みが配されている。毎年5月第4日曜、平安貴族の装束をまとった歌人たちが遣水に盃を流し、和歌を詠む曲水の宴が優雅に行われる。国特別史跡、特別名勝。世界遺産。
みちのく民俗村内にある伊達藩(仙台藩)時代の典型的な農家住宅。北上市内に残されていた伊達藩の村役人を務めた大肝入[おおきもいり]の住宅を移築・復元したもので、通称は「中村屋敷」。主屋は江戸中期の享保13年(1728)建築で、桁行21.3m、梁間10.8mの茅葺き、寄棟造の直屋[すごや]。建物の半分近くは土間。当時の様子を記した普請帳が残る。主屋前に立つ享保5年(1720)建築の茅葺きの薬医門とともに国指定重要文化財となっており、岩手県内の建築年代の明らかな古民家の建物の中では最も古いもの。
中尊寺東方の高館は、藤原秀衡を頼って落ち延びた源義経の館があった場所。山頂の義経堂には、義経公の尊像が安置されている。芭蕉が「夏草や兵共が夢の跡」と詠んだ地でもあり、入口の階段を上った右側には芭蕉や曽良[そら]の句碑が立つ。眼下に衣川、北上川も眺望できる。春から初夏にかけてはツツジが美しい。
藤原基衡[もとひら]の妻が建立した寺院跡。境域は東西120m、南北約180mで西域に土塁の一部が残る。浄土庭園には大・小の阿弥陀堂が建っていた。現在ではその跡に発掘に基づいて舞鶴ケ池が復元され、史跡公園として整備されており、憩い場として親しまれている。
紳亀元年(724)に創建され、陸奥の国府、鎮守府が置かれた多賀城の中核部分。面積は約1.2haにもおよび、平城宮跡・大宰府跡と並んで日本の三大史跡の一つに数えられている。築地塀で囲まれた政庁の中央部には、正殿や脇殿など建物が立ち並び、重要な儀式や事務が行われていた。現在は建物の基壇や礎石など奈良時代後半頃の状況に平面整備が進んでいる。国の特別史跡に指定されているほか、日本遺産にも認定されている。
伊達政宗公が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟を、2代藩主忠宗公が江戸より移築したもの。歴代藩主が納涼・観月の場とした観瀾亭は「月見御殿」とも呼ばれており、秋には毎年お月見会を開催。室内の極彩色の障壁画は重要文化財に指定されている。
国府多賀城の南東約1kmに位置し、多賀城の付属寺院として建立されたといわれている。伽藍配置は太宰府(福岡県)の観世音寺に類似している。寺院の名称は不明だが、昭和58年(1983)に出土した土器の墨書きから、「観音寺」ではないかといわれている。
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