
大納言塚
豊臣秀長の墓所で、土壇の上に立派な五輪塔が立つ。塔には秀長の法名が刻まれている。山門前にお願い砂の入った箱があり、その中の砂を願い事を言いながら穴に通すようになっている。
- 「近鉄郡山駅」から徒歩10分/「郡山(奈良)駅」から徒歩25分
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豊臣秀長の墓所で、土壇の上に立派な五輪塔が立つ。塔には秀長の法名が刻まれている。山門前にお願い砂の入った箱があり、その中の砂を願い事を言いながら穴に通すようになっている。
「米忠[こめちゅう]」の屋号で、代々金物商と肥料商を営んでいた家。本瓦葺きで18世紀中ごろの建築とみられている。土間には煙り返しが付くなど農家風の印象。太い格子や蔀戸[しとみど]など建具もすばらしい。
佐紀盾列古墳群の中にあり、垂仁[すいにん]天皇の皇后、日葉酢媛命の陵墓とされる。全長203mの前方後円墳で、巨大な蓋[きぬがさ]形埴輪などが出土した。『日本書紀』によると、垂仁天皇は皇后の死去にあたり、殉死の風習をやめさせるため、初めて埴輪を用いたという。
神功皇后は仲哀[ちゅうあい]天皇の皇后とされ、三韓出兵の伝承が残る。全長275mの前方後円墳は佐紀盾列古墳群で最大。こんもり茂る緑は山のようだ。
「大東の四条屋」の屋号で酒造業を行っていた。前面の格子は木割りが細く、幕末の上層民家の好例。中2階形式が多い今井町にあって、完全な2階建てで、2階の窓も虫籠[むしこ]窓でなく、出格子[でごうし]窓。土間上方の高窓が、ひもで上げ下げできるのも、新しい形式だ。
玄関先に吊された杉玉からもわかるように、18世紀後半から現在まで続く造り酒屋。屋号は「上品寺屋[じょうぼんじや]」。江戸末期には今井にも数軒の造り酒屋があったが、今も残るのはここだけ。屋根の一方が切妻、一方が入母屋という珍しい造りで、2階に座敷を備える。2階見学は要予約。
本町筋の中央にあり、18世紀初期頃の町屋と資料にもとづき当初の姿に再現した館。
佐紀盾列古墳群、日葉酢媛命陵の西にあり、奈良時代の女帝孝謙(称徳)天皇の陵墓とされる。東西方向の不整形な前方後円墳で、西に拝所がある。孝謙(称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后の娘で、西大寺を建立したことで知られている。
唐招提寺境内の北側に位置する御影堂は入母屋造、銅板葺きの瀟洒な堂宇。元は興福寺別当の一乗院御殿として慶安2年(1649)に建立されたもので、国指定重要文化財。明治期に奈良県庁舎や裁判所庁舎として使用され、昭和39年(1964)に現在地に移築、建立当時の姿に復原された。堂内の厨子には日本最古の肖像彫刻とされる鑑真和上坐像を安置。像高80cmの像は、和上の死を予感した弟子の忍基らによって制作されたと伝わり、瞑想する和上の姿を忠実に表した傑作だ。襖絵は日本画家・東山魁夷の作。
平城宮跡にあり、平城宮の正門。門をくぐって北へ行けば平城宮内の第一次大極殿、南へは平城京のメインストリートである朱雀大路が延びていた。高さ20m、間口25m、奥行き10mの壮大な二重門として蘇り、朱塗りの柱と白壁が美しい。大屋根には金色の鴟尾[しび]も輝く。外国使節など賓客の訪問時や儀式の際しか扉は開けられなかったというが、現在は日中常時開放。
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