
芬陀院(雪舟寺)
東福寺塔頭の一つ。元享年間(1321~24)に、関白一條内経が父の菩提を弔うために創建したが、火災などで衰え、慶安年間(1652~1705)に一條兼輝が再興した。室町後期の画家・雪舟等楊[とうよう]の築造と伝わる鶴亀の庭があることから、別名雪舟寺とも呼ばれる。また、江戸時代に「茶関白」と呼ばれた一條恵観[えかん]が、東福寺参詣の際には茶席図南亭[となんてい]にて茶を楽しまれたと伝えられる。
- 「鳥羽街道駅」から徒歩7分/「東福寺駅」から徒歩10分
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東福寺塔頭の一つ。元享年間(1321~24)に、関白一條内経が父の菩提を弔うために創建したが、火災などで衰え、慶安年間(1652~1705)に一條兼輝が再興した。室町後期の画家・雪舟等楊[とうよう]の築造と伝わる鶴亀の庭があることから、別名雪舟寺とも呼ばれる。また、江戸時代に「茶関白」と呼ばれた一條恵観[えかん]が、東福寺参詣の際には茶席図南亭[となんてい]にて茶を楽しまれたと伝えられる。
全国で約3万社を超える稲荷神社の総本宮。商売繁昌、五穀豊穣の神として有名。二の鳥居をくぐると、天正17年(1589)に豊臣秀吉が寄進した朱塗りの楼門(重要文化財)がある。本殿(重要文化財)は、明応8年(1499)再興し檜皮葺き。本殿背後にある鳥居のトンネルをくぐれば奥社奉拝所。稲荷山への登り口である。高さ233mの山には、至る所にお塚があり、それを巡拝する「お山めぐり」は約4km、2時間ほどかかる。
境内にはソメイヨシノの他に墨染の地名の起こりと伝えられる、墨染桜がある。この墨染桜は、平安時代の歌人・上野峯雄が時の関白・藤原基経の死を悼み、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」と詠んだところ、桜が本当に薄墨色に咲いたという云われがある。花は小さく白色の単弁。現在は四代目が花を咲かせる。
鎌倉時代中期に後堀河天皇の勅願所として建立。御本尊は運慶・湛慶親子合作で全長10mの木像の釈迦如来像(重文)。幾度かの移転の後、江戸時代に後水尾天皇が即位争いに巻き込まれ暗殺されかかったときにこのお釈迦様が身代わりに立たれたことから御寺泉湧寺の塔頭となった。
わが国航空界の先駆者である二宮忠八[にのみやちゅうはち]が、大正4年(1915)に全世界の航空殉難者の御霊を慰めるために建立。忠八はライト兄弟より早く飛行機の実用化を試みたが、軍の上司に却下されたという。境内には航空関係の資料館もある。
石清水八幡宮の別当だった善法寺宮清[ぜんぽうじみやきよ]が建立。本堂は、八幡宮の旧社殿の一部を移したものと伝わる。宮清の孫・通清の娘で足利義満の母である良子が寺に数多くのモミジを寄進したと伝えられ、今でも秋には境内全体が燃えるような紅葉に包まれる。律宗寺院で奈良・唐招提寺の末寺。
京・大坂の境にある要衝地に、徳川幕府が築いた城。享保8年(1723)からは幕末まで稲葉氏十万二千石の居城であった。明治維新で破却されたが、本丸跡の石垣と内濠の一部が残り、往時を偲ばせている。また、秀吉の愛妾淀君の館が、淀城北東500mの納所妙教寺あたりにあったと伝えられている。
別名らくがき寺といい、境内の大黒堂の壁に自由に願い事を書ける。大黒堂建立にあたって受けた援助に感謝して、大黒様に願い事がよく見えるようにと始められた。白壁はさまざまな願いで埋まるが毎年末に塗り替えられる。
緑豊かな男山の山上に立つ古社で、創建は貞観2年(860)。国家鎮護のために、平安京の裏鬼門(南西)に当たるこの地に九州宇佐より八幡神を勧請されたのが始まり。創建以来朝廷の崇敬は篤く、のちに源氏の氏神となり源頼朝らも訪れたという。現在は厄除けの神様として信仰を集める。朱塗りの社殿は徳川家光の寄進により江戸時代に再建され、動物彫刻などで装飾された豪華絢爛な本殿を含む十棟が国宝に指定。『徒然草』の有名な話で、仁和寺の僧が八幡宮本殿と間違えたという摂社、高良神社[こうらじんじゃ]は男山山麓にある。
ネオ・ルネッサンス様式の公共施設。一市民の岩本栄之助氏の寄付により建設されたもので、赤レンガに青銅のドーム型の屋根が美しい。内部は貸室になっているため、B4にある展示室等を自由に見学できる。
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