
向陽山 光永寺
安政元年(1854)、当時19歳の福沢諭吉が蘭学の勉強の拠点として1年間、ここに滞在した。珍しい御朱印地様式の山門が残る。旧長崎市内で最初の宗教施設。慶長19年(1614)建立。すべての神社仏閣はキリシタン時代に焼打ちにあい、その跡地に大聖堂が建った。光永寺は禁教令が出て最初に建った。
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安政元年(1854)、当時19歳の福沢諭吉が蘭学の勉強の拠点として1年間、ここに滞在した。珍しい御朱印地様式の山門が残る。旧長崎市内で最初の宗教施設。慶長19年(1614)建立。すべての神社仏閣はキリシタン時代に焼打ちにあい、その跡地に大聖堂が建った。光永寺は禁教令が出て最初に建った。
延宝5年(1677)に建立された寺で、興福寺・福済寺・崇福寺と共に「長崎四福寺」ともよばれ、福を呼ぶ寺として人気が高い。欄干など、いたる場所に唐寺の風情が色濃く漂い、長崎一大きな梵鐘や鬼瓦を埋め込んだ塀などみどころも多い。鎖国令により15歳で国外追放された、混血児のジャガタラお春の碑があることでも知られている。
寛永11年(1634)、唐僧・黙子如定[もくすにょじょう]によって架設。中島川石橋群の中では唯一の双円アーチ型で、水に映った姿が眼鏡のように見えるためこの名が付いている。眼鏡橋のビューポイントは2つ隣の東新橋。アーチが高いので、眼鏡橋を正面から見下ろす角度で見ることができる。橋の向こうに夕日が沈む景色は一見の価値あり。河畔は中島川公園として整備され、枝垂れ柳が風情を感じさせる。川沿いに遊歩道もあるので、ゆっくりと散歩をしてみよう。夜22時までライトアップを実施。長崎の観光名所として人気が高い。
亀山社中跡の長崎市亀山社中記念館近く、亀山通りに石碑が立つ。亀山焼窯は文化4年(1807)に、大神甚五平を中心に開窯した。オランダが注文した水瓶を主に焼いていたが、オランダ船来航の減少により白磁染付を製作するようになり、やがて慶応元年(1865)に閉窯。龍馬は自分の名と同じ龍が描かれた亀山焼の茶碗を愛用したといい、この窯跡地に亀山社中を設立した。現在、窯跡の一部が確認されており、石碑脇には案内板が、そばの伊良林平公民館では外壁に展示棚を設けて亀山焼の作品を展示している。
坂本龍馬やその同志たちが歩いた道として知られ、長崎歴史探訪路として整備されている坂道。寺町通りの深崇寺と禅林寺の間から、亀山社中跡を経て風頭公園までの石段まじりの500mほどの細い坂道で、長崎市亀山社中記念館となっている龍馬創立の「亀山社中」の跡までは案内板をたどり約6分で到着。途中の案内板や道標はよく整備されており、記念館そばの龍馬のぶーつ像からは長崎市街の眺めがいい。
長崎の街を見渡せる風頭山山頂にあるこの公園は、坂本龍馬の銅像や司馬遼太郎の記念碑が立つことでよく知られており、毎年それぞれのファンが多く訪れている。また、この公園は長崎では「ハタ」とよばれる凧をあげて「けんか凧」を楽しむ場所としても有名。カラフルで大胆なデザインの凧を、空中でお互いにからませて相手の糸を切る戦いは、勇壮で美しい。
長崎奉行所立山役所の建物を同じ場所に一部復元整備。長崎奉行所の役割と近世長崎の海外交流史を、歴史・美術・工芸資料や映像などを通して紹介している。南蛮屏風や解体新書、踏み絵、シーボルトが実際に使用した医療器具などを常設展示している。
若宮稲荷神社そばに移設された資料館。上野彦馬が撮影した幕末の志士たちの写真や、「五箇条の御誓文」の元になったと言われる「新政府綱領八策」の原文写しなどファン垂涎の資料約150点が展示されている。平成30年(2018)3月に改修工事を行い、屋根、床、天井の補修、そして正面玄関廻りの拡張やバリアフリー化など、崩れかけたあばら家が少しきれいになって、出入りしやすくなった。
中通り商店街は、江戸中期から続く長崎でも最も古くからある商店街。一見普通のお店に見えるところが、実は明治時代から続く老舗ということも。老舗菓子に雑貨、骨董、八百屋、ファッションなど約400m続く通りに約130軒ものお店がひしめきあっている。
明治中期に建てられた洋館。ハートリーフが人気の憩いのスポット。コーヒーがとてもおいしい。
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