
弥栄神社
室町前期に創建された神社で、境内には樹齢540年を超える御神木のケヤキがそびえている。7月の祇園祭の神事として奉納される「鷺舞」の舞台でもある。鷺舞は国指定の無形民俗文化財となっていて、2羽の鷺に扮して舞う姿は古式ゆかしく、かつ優雅だ。毎年6月30日には「輪くぐり神事」が行われ、夏を迎える風物詩として賑わう。
- 「津和野駅」から徒歩13分
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室町前期に創建された神社で、境内には樹齢540年を超える御神木のケヤキがそびえている。7月の祇園祭の神事として奉納される「鷺舞」の舞台でもある。鷺舞は国指定の無形民俗文化財となっていて、2羽の鷺に扮して舞う姿は古式ゆかしく、かつ優雅だ。毎年6月30日には「輪くぐり神事」が行われ、夏を迎える風物詩として賑わう。
応永27年(1420)に津和野城主吉見頼弘[よしみよりひろ]が創建した、歴代津和野城主の菩提寺。江戸時代は曹洞宗の西日本本山として栄えた。どっしりとした茅葺き屋根の本堂や経蔵、書院などの建物は、享保14年(1729)に再建されたもの。山門にかかる「覚皇山」の額は、明の帰化僧で水戸光圀[みとみつくに]に迎えられた心越[しんえつ]禅師の書だ。山門左手に森鴎外、本堂裏には大坂夏の陣で徳川家康の孫娘千姫を救出した坂崎出羽守の墓がある。
津和野藩主亀井家の藩邸跡に造られた公園。園内に藩主が祭礼を眺めたという物見櫓[ものみやぐら]が、御幸橋[みゆきばし]畔に馬場先櫓[ばばさきやぐら]が復元されている。八重桜が多く、4月上旬は花見客で賑わう。
JR日原駅近くの津和野川で、川藻の多くある場所でゲンジボタルの乱舞が見られる。日没~22時ぐらいまでが観賞に最適。
西周は文政12年(1829)、津和野藩の医師の家に生まれ、わが国に西洋哲学を初めて紹介した哲学者。ペリー来航に触発されてオランダに留学し、法学と西洋哲学を学び帰国した。帰国後は15代将軍慶喜の政治顧問を務め、維新後は陸軍・文部・内務省の官僚を歴任。山県有朋のもとで明治憲法の草案作成に関わるなど、多方面で活躍した。森鴎外の森家とは親戚にあたり、家も近い。旧居は津和野川をはさんで鴎外旧宅と相対して立つ。安政元年(1854)再建の茅葺きの母屋と、周の勉強部屋があったという土蔵はともに国の史跡に指定。
明治の文豪・森鴎外が文久2年(1862)に生まれ、10歳まで過ごした家。父は藩の御典医で、玄関から入って左の3畳間が父の調剤室。その奥の4畳半が鴎外の勉強部屋だったという。明治42年(1909)に発表された『ヰタ・セクスアリス』の中に「このへんは屋敷町で、春になっても柳も見えねば桜も見えない」と書いているのはこの家のことだ。前庭に鴎外の詩『扣鈕[ぼたん]』を佐藤春夫の筆で刻んだ碑が立つ。
手回し式の計算機や、写真機、蓄音機など、明治~昭和初期の各時代を物語る生活道具を展示する資料館。ほとんどの展示物が自由にさわれ、実際に使えるダイヤル式公衆電話もある。所要30分。
安永2年(1773)、津和野藩主7代亀井矩貞[のりさだ]公が京都の伏見稲荷大社より勧請された社であり、日本五大稲荷のひとつ。稲成と表記されるのは、「成就」=「願いが成る」の意味が込められているためといい、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・願望成就などのご利益を求めて多くの参詣者が訪れる。山腹には成就御礼と御祈願のために奉納された約1000本の鳥居が九十九折れのトンネルとなり、朱塗りの社殿とともに美しい景観を造り出している。11月15・16日の例大祭のころは紅葉も見ごろ。
亀井家8代矩賢[のりかた]が天明6年(1786)に創設し、西周や森鴎外など多くの人材を輩出した藩校跡。儒学・兵学・医学・数学と、幕末には蘭学も教えていた。当初は下中島堀内にあったが、津和野の大火で焼失、安政2年(1855)にこの地に移された。現在残っているのは武道場と槍術場・文庫のみ。建物内では養老館の歴史、出身者などをパネルで紹介している。島根県指定史跡。所要30分。
江戸時代の情趣を現代に伝える津和野のメインストリート。明治の文豪、森鴎外が少年時代に通った藩校養老館も現存している。6月は堀割に咲く花菖蒲と錦鯉のコントラストが美しい。
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