等覚寺
350年前に創建されたとされる曹洞宗の寺。南木曽町では円空によって彫られた仏像が6体見つかっているが、うち3体がこの寺に納められている。境内左手の円空堂には、貞享3年(1686)に制作された記録が残る弁財天十五童子像と天神像、庫裏の玄関脇に全長48cmの韋駄天像[いだてんぞう]があり、いずれも南木曽町の有形文化財。
- 「南木曽駅」から徒歩16分
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350年前に創建されたとされる曹洞宗の寺。南木曽町では円空によって彫られた仏像が6体見つかっているが、うち3体がこの寺に納められている。境内左手の円空堂には、貞享3年(1686)に制作された記録が残る弁財天十五童子像と天神像、庫裏の玄関脇に全長48cmの韋駄天像[いだてんぞう]があり、いずれも南木曽町の有形文化財。
檜、サワラなどの木曽五木をはじめとする、伐採禁止木の出荷を監視していた番所の跡地。当時は無断で木曽の木を持ち出すと「木一本首一つ」といわれるほど罰則が厳しかった。もとは妻籠の下り谷にあったが、寛延2年(1749)の山崩れにより一石栃に移され、以後統制は明治2年(1869)の藩籍奉還まで続いた。現在は木の柵が復元され、標示板が掲げられている。
中山道の東側にある滝で、清々しい水の音が辺りの山林に響いている。水量の多い方が男滝、奥にある水量の少ない方が女滝だ。また、吉川英治[よしかわえいじ]著の『宮本武蔵』に登場し、武蔵とお通[つう]の恋物語の舞台にもなっている。滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様[くらしなさま]伝説も興味深い。
長屋だった建物の一軒分だけを昭和43年(1968)に解体、建造当初の姿に復元された。片土間に並列二間取の形式をそのまま留めた、妻籠における庶民の典型的な家屋だ。内部には蓑[みの]や籠[かご]などの生活用具が置かれ、江戸時代の庶民の暮らしをうかがい知ることができる。
幕府が庶民に対し、禁制や法度[はっと]、罪人の罪科などを示した掲示板。現在の官報掲示板に当たる。脇本陣奥谷[おくや]から北に100m、江戸方面から宿場へ入る入り口付近にあり、江戸幕府の威信を示すためか人々を見下ろすような形で高札が掲げられている。現在見られる屋根付きの高札は、江戸時代の姿をそのままに復元したもの。掲示板の実物は、南木曽町博物館に収蔵展示されているので、あわせて見学したい。
南木曽町博物館のひとつで、宿駅が制定されてから代々妻籠宿の本陣・庄屋を務めた島崎家の邸宅。藤村の母ぬいの生家でもある。明治20年(1887)代に一度取り壊されたが、江戸時代後期の間取り図を元に再建された。島崎家の居住と、大名が泊まった御上段の間や家来が使った部屋まで、往時の姿のまま忠実に復原されている。
妻籠宿を南に行ったところにある集落で、古民家が軒を連ねる。ひときわ大きな袖卯建[そでうだつ]のある出梁[だしばり]民家が風情豊かな景観を作り上げている。
光徳寺の石段の下に建てられた小さな祠に、地蔵尊の寝姿が浮き出ている自然石が祭られている。文化10年(1813)に光徳寺住職中外[ちゅうがい]和尚が、蘭[あららぎ]川から運んできて安置したもの。4月23・24日の例祭が近づくと夜露で石が濡れてくるため汗かき地蔵ともよばれ、玉の汗を流して迷える女性を救うといわれている。
全て国産材から器を作り出す伝統工芸品とダイニングテーブル、椅子、指物家具の専門店。漆の工房もあり、すべて自社で作り上げる。オーダーメイドの器・家具対応可。手挽きろくろ体験(要予約)所要時間1時間料金3000円(税別、送料別途)。
桝形とは、宿場の出入り口に必ず設けられた直角に折れる道。かつて幕府により防塞[ぼうさい]施設としての役割も担わされていた宿場は、街道を2度、直角に折り曲げて外敵の侵入を防いだという。妻籠の桝形は、観光案内所から下嵯峨屋までの70mの間にあり、当時の形がくっきりと分かる姿で保存されている。江戸幕府の統治の一端が垣間見える、興味深い場所だ。
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