
法隆寺 綱封蔵
法隆寺にある建物で、綱封蔵とは全僧尼を統括する僧官である僧綱[そうごう]が開閉する蔵のこと。綱封は勅封に次ぐ格式があった。これは高床の宝庫で、正面9間、側面3間の寄棟造本瓦葺き。中央3間を吹き抜け、両端を蔵とした形式で、扉は吹き抜け部に向かい合って開く双倉。外側は塗壁、内側は厚い板壁となっている。校倉とは違った形式の蔵として、極めて貴重な遺構だ。
- 「法隆寺駅」から徒歩25分
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法隆寺にある建物で、綱封蔵とは全僧尼を統括する僧官である僧綱[そうごう]が開閉する蔵のこと。綱封は勅封に次ぐ格式があった。これは高床の宝庫で、正面9間、側面3間の寄棟造本瓦葺き。中央3間を吹き抜け、両端を蔵とした形式で、扉は吹き抜け部に向かい合って開く双倉。外側は塗壁、内側は厚い板壁となっている。校倉とは違った形式の蔵として、極めて貴重な遺構だ。
大和川・寺川・曽我川など9つもの川が合流する場所に立ち、農耕と治水の神として信仰を集める古社。境内には、春日造の朱塗りの社殿が鎮座している。2月11日の御田植祭[おたうえさい]は「砂かけ祭」と呼ばれ、参拝者も一緒になって砂を激しくかけあう奇祭。河合町指定無形民俗文化財に指定。
続日本記に詳述されているとおり、奈良時代(749年)平城宮の南。梨原の薬園新宮内に設けた神殿に迎え祀られる。梨原の地はもと薬園のあったところで新宮の名もこれに因む。現在の社殿は桃山時代の再建とみられ(奈良県文化財指定)、一間社隅木入春日造で桧皮葺き、要所に極彩色が残り、彫刻や鍍金[ときん]金具などに独特の華やかさをみることができる。美しい釣灯籠も見ておきたい。境内には約50種類程の薬草見本園がある。
法隆寺西院伽藍にある、日本最古の五重塔。基壇上からの総高は31.5m。各層の平面の漸減率が大きく、第5層は初層の半分になっている。屋根は本瓦葺きで、ゆるやかな勾配の美しい線を描く。相輪は全高のほぼ3分の1。初層内陣には心柱を囲むようにして須弥壇[しゅみだん]が築かれ、有名な塑像群像(国宝)がある。北面は釈迦の入滅、東面は文殊菩薩と維摩[ゆいま]居士の問答、西面は舎利分割、南面は弥勒浄土をそれぞれ表現している。
東室は法隆寺西院回廊の東側の国宝の僧坊。天平以前の創建とみられ、当初は正面4間・側面18間だったが、保安2年(1121)の改造で南3分の1を改め、聖徳太子を祭る聖霊院とした。現在の建物は、鎌倉時代後期の弘安7年(1284)にやや規模を大きくして新造されたもので国宝。切妻造の前面に付く吹放しの庇[ひさし]、蔀戸[しとみど]など、平安時代の寝殿造の対屋[たいのや]形式を連想させる。内部には3つの厨子があり、中央の厨子には聖徳太子坐像(国宝)を安置。3月下旬の「お会式」で厨子が開帳される。
300mほどの松並木の参道の先に位置する法隆寺伽藍全体の国宝の総門。三間一戸、入母屋造の八脚門で、木鼻[きばな]や花肘木[はなひじき]に大仏様の影響がみられる寺院建築様式の門。法隆寺創建時は中門前の石段の位置にあったが、長元4年(1031)に現在地に移され、室町時代の永享7年(1435)に焼失、永享10年(1438)に再建、今日に至る。四隅の軒反りの曲線が美しい本瓦葺きの屋根と、法隆寺七不思議の一つで、踏むと水難除けになると伝わる門前の「鯛石」は見逃さないように。
興福寺にある、高さ約50mの塔。古塔としては京都・東寺の五重塔に次ぐ高さで、奈良のシンボルとして親しまれている。天平2年(730)、光明皇后によって創建されたが、たびたび焼失。現在の塔は6度目の再建だ。室町時代の建築ながら、東金堂と同様、天平様式を踏襲している。現在は約120年ぶりの修理工事が進められ、令和13年(2031)3月までの予定となっている。
天正13年(1585)に豊臣秀長が建立したといい、本尊の阿弥陀三尊立像(重要文化財)は鎌倉時代の作で快慶作と伝わる。門の左手の小堂に祭る石仏「垢かき地蔵」はふっくらした顔立ちで気品があり、かつては郡山城の沓脱石[くつぬぎいし]になっていたといわれる。門前の洞泉寺町はかつての花街で、木造3階建ての旧遊郭が残る。
法隆寺西院伽藍の入口にある国宝の門。天智9年(670)の火災後の再建で重層入母屋造。上層勾欄の卍崩しや人字形の割束[わりづか] の意匠などは飛鳥時代の建築様式を伝えている。門の中央正面にはエンタシス様式の柱があり、その両側に各2戸の入口がある珍しい造りだ。左右に立つ金剛力士像(国指定重要文化財)は和銅4年(711)の造立で、寺の門にある金剛力士像としては最も古い。中門から左右に延びる回廊(国宝)は、金堂と五重塔を囲んで経蔵(国宝)と鐘楼(国宝)、大講堂(国宝)へと繋がり、立ち並ぶエンタシス柱が美しい。
十一面観音像を本尊とする古寺。縁起によると、敏達[びたつ]天皇の第7皇女である片岡姫が仏教に帰依し、自らの片岡宮を寺にしたと伝えられる。また用明天皇や聖徳太子らの支援を受け、大伽藍が建造されたともいわれるが、永承元年(1046)に落雷のため多くを焼失。残った堂宇も元亀3年(1572)に松永久秀の兵火で失った。境内には桜の老木があり、隠れた名所。
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