
東金堂
興福寺にはかつて3つの金堂があり、これは東に位置するから東金堂。神亀3年(726)に聖武天皇の発願で建立されたが、現在の堂は応永22年(1415)に天平様式で再建されたもの。堂内には本尊薬師如来像(重要文化財)と脇侍の日光・月光両菩薩像(重要文化財)、十二神将像(国宝)、四天王像(国宝)、文殊菩薩像(国宝)などを安置する。
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興福寺にはかつて3つの金堂があり、これは東に位置するから東金堂。神亀3年(726)に聖武天皇の発願で建立されたが、現在の堂は応永22年(1415)に天平様式で再建されたもの。堂内には本尊薬師如来像(重要文化財)と脇侍の日光・月光両菩薩像(重要文化財)、十二神将像(国宝)、四天王像(国宝)、文殊菩薩像(国宝)などを安置する。
興福寺の門跡寺院だった大乗院の庭園跡。平成22年(2010)の整備完了後に一般公開された。庭園南側に立つ大乗院庭園文化館からも望める。
當麻曼荼羅で知られる中将姫ゆかりの尼寺。中将姫の父、藤原豊成の邸跡に立ち、中将姫が生まれた所と伝わる。境内には産湯の井戸がある。見学は要事前問合せ。
室町時代の再建時に興福寺に建てられた風呂。内部には大きな鉄の湯釜2基が据え付けられているが、公開されていない。
興福寺境内の南側に位置する八角円堂。弘仁4年(813)、藤原冬嗣[ふじわらのふゆつぐ]が父内麻呂[うちまろ]のために建立した。現在の堂は江戸時代の再建。西国三十三カ所観音霊場第9番札所でもあるため、堂前には線香の煙りが絶えず、庶民的な雰囲気が漂う。本尊は高さ3.4mの不空羂索[ふくうけんさく]観音坐像(国宝)で、運慶の父康慶一門の作だ。堂内は、毎年10月17日(9~17時)に特別開扉される。
天長元年(824)、淳和天皇の勅願で空海が開いたと伝わる古刹。かつては大寺だったが、兵火と廃仏毀釈で衰えた。平安時代の端正な鐘楼門(重要文化財)は唯一の創建当初の遺構。本尊の阿弥陀三尊像(重要文化財)は藤原時代末期の作だが、玉眼[ぎょくがん]を使った最古の仏像。横11m、縦4mの大地獄絵が例年10月23日~11月30日に開帳される。また、境内1万2000坪にわたり四季折々の花が咲き、春はツツジ、杜若、秋は紅葉(全国紅葉百選)が美しい「花と文化財の寺」である。
大和国の地主神である大和大国魂[やまとおおくにたま]神と、八千戈[やちほこ]神、御年[みとし]神を祀る古社。『日本書紀』によると、大和大国魂神は天照大神と並ぶ神威があり、初め宮中に祀られていたが巻向山北麓に移され、のちに現在地に遷座した。境内は東西に細長く、古代の幹線道上ツ道[かみつみち]に面して一の鳥居が立ち、樹林に包まれた長い参道を抜けると、明治初頭に改築された社殿3殿が立つ。
和爾下神社古墳の後円部に立ち、本殿(重要文化財)は桃山時代の建築様式を残す。付近は古代豪族、和爾氏の本拠地と伝わり、和爾氏の祖神を祭っている。神社の境内には柿本人麻呂の墓といわれる、歌塚と刻まれた石碑が立つ。
広い敷地に荘厳な雰囲気を漂わせる神殿が建つ。「かんろだい」を芯に礼拝場が設けられ、北にある教祖殿や祖霊殿とは約800mの長い回廊でつながっている。天保9年(1838)に教祖中山みきによって開かれ、親神天理王命の望む「陽気ぐらし」を目指している。
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