
玄賓庵
檜原神社から山辺の道を南へ5分ほど行った地に、ひっそり立つ。奈良~平安時代初期の僧玄賓[げんぴん]が隠棲した所と伝え、もと三輪山の檜原谷にあったが、明治の神仏分離で現在地に移された。小堂に藤原時代作の木造不動明王像(重要文化財)や玄賓像を祭り、謡曲『三輪』の舞台でも知られる。
- 「三輪駅」から徒歩20分
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檜原神社から山辺の道を南へ5分ほど行った地に、ひっそり立つ。奈良~平安時代初期の僧玄賓[げんぴん]が隠棲した所と伝え、もと三輪山の檜原谷にあったが、明治の神仏分離で現在地に移された。小堂に藤原時代作の木造不動明王像(重要文化財)や玄賓像を祭り、謡曲『三輪』の舞台でも知られる。
聖徳太子が平群[へぐり]に建立した熊凝精舎[くまごりしょうじゃ]が始まりと伝わる。国家鎮護の官寺として宮都の変遷とともに各地を移転。平城遷都後、現在地に定まり大安寺と号した。東大寺、西大寺と並んで南大寺[なんだいじ]とも呼ばれ、壮大な伽藍を誇ったが、中世以降衰微。天平末期から弘仁時代の木彫仏を多数安置する。本堂の十一面観音立像(重要文化財)、嘶[いななき]堂の馬頭観音立像(重要文化財)は秘仏。讃仰[さんごう]殿安置の楊柳[ようりゅう]観音立像(重要文化財)、四天王立像(重要文化財)などは通年拝観できる。
山の辺の道から山門をくぐると聖徳太子像が迎える。開基開山を聖徳太子と伝える由緒ある名刹。慶長5年(1600)には関ヶ原の合戦で敗れた島津義弘公をかくまう。明治の廃仏毀釈により整理を迫られたが托鉢によって再興。
安産・子授け祈願の寺として全国から参拝者が絶えない。文徳[もんとく]天皇の皇后藤原明子[ふじわらのあきらけいこ]がこちらの地蔵菩薩に祈願したところ、清和[せいわ]天皇を出産。喜んだ文徳天皇が伽藍を整え、天安2年(858)、「腹帯が無事に解け、安産できた寺」帯解寺[おびとけでら]と名付けられた。穏やかな表情の本尊木造地蔵菩薩半跏像は重要文化財に指定されている。
野見宿禰を祭神とする、穴師坐兵主神社の摂社。相撲発祥の地。『日本書紀』によれば、大和国の當麻蹶速と出雲国の野見宿禰が日本で始めての相撲をとり、勝った野見宿禰には當麻蹶速の領地が与えられた。
興福寺にある、高さ約50mの塔。古塔としては京都・東寺の五重塔に次ぐ高さで、奈良のシンボルとして親しまれている。天平2年(730)、光明皇后によって創建されたが、たびたび焼失。現在の塔は6度目の再建だ。室町時代の建築ながら、東金堂と同様、天平様式を踏襲している。現在は約120年ぶりの修理工事が進められ、令和13年(2031)3月までの予定となっている。
大化元年(645)創建。本尊の文殊菩薩は鎌倉時代の大仏師・快慶作の国宝で日本最大(7m)。平安時代から魔除け・災難除けの守り神として尊崇されている陰陽師・安倍晴明公ゆかりの寺であり、全国から参拝者が絶たない。境内文殊池中央に浮かぶ金閣浮御堂霊宝館は、魔除け・災難除けの願掛け道場となっており、この御堂の回廊を自分自身が7回廻って、厄・災難を払う「災難除け七参り」を申し込むと「おさめ札と肌守り」が授与され堂内の宝物拝観ができる。
コンクリート造りの小堂に安置され、格子越しに拝観できる。高さ2.14m、幅83.5cm、厚さ21.2cmの2枚の岩に浮き彫りされた像は、右が釈迦如来、左が弥勒如来とされる。鎌倉時代の作といわれるが、天平末期という説も。もとは大神神社近くの平等寺にあったが廃仏毀釈で寺と一緒に破壊されるところを村人が移し、今も守り続けている。
推古元年(593)創建といわれ、藤原氏に崇敬された。檜皮葺きの本殿は三間社流造[さんげんしゃながれづくり]。社宝に徳川家康奉納といわれる鎧があるが、奈良国立博物館に寄託中。境内の林[りん]神社は、室町時代に中国から渡来し饅頭の製法を伝えた林浄因[りんじょういん]を祭神とする。
鑑真[がんじん]和上の弟子、思託[したく]律師が宝亀年間に開いたと伝わり、天正13年(1585)に筒井順慶[つついじゅんけい]の母が順慶の菩提を弔うため再興。以後、筒井家の菩提寺となった。寄棟造の本堂(重要文化財)は再興時の建立。鎌倉時代の地蔵菩薩像(重要文化財)は裸形像に実際の着物を着せた裸形着装[らぎょうちゃくそう]像として有名で、月曜、休みの時以外は開扉。花びらがひとひらずつ散る散り椿は東大寺開山堂の糊[のり]こぼし、白毫寺[びゃくごうじ]の五色椿と並び奈良三名椿の一つ。
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