
光触寺
初めは真言宗の寺だったが、一遍[いっぺん]上人に帰依した作阿[さくあ]上人が弘安年間(1278~88)に時宗[じしゅう]に改宗したと伝わる寺。山門を入ると苔むした石仏が並び、花や供物が絶えない。本堂には盗みの疑いで頬に焼印を押された法師のかわりに焼印の痕が付いたという伝説が残る、重要文化財の阿弥陀如来像(頬焼阿弥陀)が安置されている。境内には供物の塩を嘗[な]めたという塩嘗地蔵がある。
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初めは真言宗の寺だったが、一遍[いっぺん]上人に帰依した作阿[さくあ]上人が弘安年間(1278~88)に時宗[じしゅう]に改宗したと伝わる寺。山門を入ると苔むした石仏が並び、花や供物が絶えない。本堂には盗みの疑いで頬に焼印を押された法師のかわりに焼印の痕が付いたという伝説が残る、重要文化財の阿弥陀如来像(頬焼阿弥陀)が安置されている。境内には供物の塩を嘗[な]めたという塩嘗地蔵がある。
海蔵寺内仏殿裏の山腹に板戸を閉めたやぐらがあり、直径約70cmのくぼみが4個ずつ4列に16個並んでいる。弘法大師が掘ったものと伝えられ、今も清水をたたえている。
円覚寺内にある、伏見上皇勅筆の『圓覚興聖[こうしょう]禅寺』の額がかかる壮大な楼門。天明3年(1783)に再建されたもので、高さ約20m・木造2層のどっしりとした重厚な構えは円覚寺のシンボルとなっている。県重要文化財に指定。
長谷寺境内に設置されており、本堂(観音堂)と直結。1階には映像展示室が用意され、長谷寺の紹介映像が流されている。第1展示室には文永元年(1264)に物部季重[もののべのすえしげ]が作った梵鐘(重要文化財)、鎌倉時代の板碑[いたび]が展示されており、2階には嘉暦元年(1326)の銘が入った銅造十一面観音懸仏[かけぼとけ](重要文化財)などの貴重な仏教美術品を展示。所要20分。
七里ケ浜と腰越港の間に突き出した小動岬の一角に立つ腰越の鎮守。源平合戦で活躍した佐々木盛綱[もりつな]が、文治年間(1185~90)に近江の八王子宮を勧請したのが始まり。新田義貞の鎌倉攻めではここで戦勝祈願をしたという。明治の神仏分離令で小動神社と改称した。岬の名前は、かつてこの地にあった松の木が風もないのに枝をふるわせ、美しい音色を響かせていたことから小動の名がついたといわれる。展望台からは腰越港を眼下に右に江の島、正面に伊豆大島などを望み、みごとな眺望が広がる。
鎌倉随一の萩の寺として有名。9月中旬には参道いっぱいに白萩が咲き乱れる。北条義時以来、執権職についていた北条氏の屋敷があったところで、北条氏滅亡後、その冥福を祈り後醍醐天皇[ごだいごてんのう]が足利尊氏[あしかがたかうじ]に命じて建武2年(1335)に建立した天台宗の古刹。本尊の子育経読地蔵[こそだてきょうよみじぞう]大菩薩は地蔵像としては珍しい座像で、国の重要文化財に指定されている。こぢんまりとした境内には、本堂、鐘楼、聖徳太子を祭る太子堂などが立つ。全部で108種あるという椿をはじめ、サルスベリなど四季折々の花が咲く。
大船観音寺の境内にある白い巨大な観音像は、優美な顔立ちが印象的。高さ25.39m、重量1915トン。昭和初期に造り始め、戦争で一時中断したが昭和35年(1960)に完成した。小高い丘の上に立ち、東屋から大船の町並みが一望に見渡せる。観音像の胎内には20分の1の原形像が祭られている。
建長5年(1253)、安房(千葉県)から鎌倉に来た日蓮聖人が初めて御小庵を結んだところで、延文2年(1357)、護良[もりなが]親王の子・日叡[にちえい]上人が草庵跡に寺を創建した。境内には本堂、法華堂、御小庵跡、護良親王墓、日叡上人墓などがある。美しい苔の石段(通行不可)があり、鎌倉の苔寺として有名だ。
和銅年間(708~715)に、豪族染谷太郎時忠が創建した鎌倉最古といわれる神社。祭神は源義家[よしいえ]の持護といわれる天照大御神[あまてらすおおみかみ]。境内はうっそうとした樹木に包まれ、現在は長谷地区の鎮守様として親しまれている。
長谷寺内にあり、弘法大師が彫ったと伝わる弁財天が祀られている(現在は観音ミュージアムに収蔵)。弁天堂背後にあるうす暗い弁天窟内は、ローソクの炎がゆらめく幻想的な雰囲気。壁面には弁財天と十六童子が刻まれている。
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